聖者への道は 自ら苦難を選び能力を全開すること

 

さて、これまで何人かの聖者のアストラル・トリップを見てきた。
いずれの聖者の人生も苦難の多いものだ。

そして共通して見られる事は、その苦難の多い人生を、自らの意思で選んでいる事である。
もっと楽な人生を歩もうと思えば、そう出来たはずなのに、わざわざ火の中に飛び込むように、苦しい道を選んでいるのだ。

 

そうして歩んでいく中で、霊能力の開眼の契機となる形でアストラル・トリップを体験し、それ以後、大きなパワーを持って人々を救済し始めているのである。

もし彼らが楽な道を選択していたなら、そんなパワーも授けられなかっただろうし、歴史に名を残す事もなかっただろう。

もって生まれた霊的な素質を最大限伸ばす事もなく、人生を終えていたに違いない。
恐らくそういう人は、人類の歴史の中に沢山いると思う。

 

これを逆に考えれば、人生で何か大きな事をしたい、自分の能力を全開したいと考えるなら、苦しい道を選択せよと云う事になるだろう。
自分の能力が否が応でも開かずにはおかない環境を、如何に上手く作るかが分かれ道になるという事だ。

 

聖者と言われ、時空を超えて、現代の私達にまでも感動を与え続ける人々は、そのようにして自分の能力を全開し切ったのである。
そしてその途上でアストラル・トリップをして、更なる困難な道を選択して行った。

 

このように考えると、文明の発達や化学技術の進歩が、必ずしも人間自身の進歩を表すものではない事が判る。
反対に、文明の発達などによって得られる安楽な生活が、却って人間を堕落させているようにも見える。

 

私達が魂の進化を願うなら、まずやらなければならないのが、その為の環境作りなのかもしれない。

 

そうして自分で選んだ苦しい道を歩んでいく事で、指標としてのアストラル・トリップが起こるのではないだろうか。

 

そのトリップは、単に肉体から抜け出てアストラル界を垣間見たなどと云う単純なものではなく、もっと強烈な体験である。
それを成し遂げた人が聖者への道を歩み、聖者となれるのだろう。

 

 

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