宮地仙道要義

後学 東方道人謹述

序に代えて

宮地仙道とは、霊寿眞宮地水位先生によりて、闡明されたる神仙道を暫く假稱していうのである。
暫定的な假稱などというのは、頗(すこぶ)る煮え切らないないようであるが、どうも適当な稱詞が見当たらない。

神仙道宮地派とか、宮地教というような局限的な内容のものではなく、さりとて単に神仙道とか、仙道とか稱しても、
余りに茫然として当たらない。

畢竟するに、宮地水位先生によりて闡明されたる神仙道と云えば、一番適当であるが、それでは名稱として難があり、
結局宮地神仙道とか、宮地仙道とか稱するの外ないという事になる。

然し、そういう名稱の下に一派をなすというような、局限的な意味は毛頭もないのであって、それは本書全篇を通読せられると、
一見して頷かれるところで、本道の霊的脈絡の深遠廣袤たる、先師説演の天衣無縫なる、到底一教一派という如き人為の枠内に
盛らるべきでなく、正に宇内神仙道中興の天意によりて、水位先生は出現せられしものと、結論せざるを得ないであろう。

宮地水位先生は、嘉永五年十一月八日、土佐國潮江村に生を享けられたのであるが、其の御前身は、宇内幽府の第一大都たる、
神集岳神仙界の仙官に坐したのである。

然るに、誤ちて冥官の掟を破られし為め、此の界を退けられ給い、所謂(いわゆる)謫仙として、現界に出生されし御方であった。

されば、幼少十歳の頃より、再び神仙界に出入の赦を受けられ、大山祇神の御執持によりて、少名彦神に伴われ、神集岳に
出入せらるるに至ったのである。
令厳は、これ亦明治初期に於ける、神仙界交通の第一人者たりし常磐先生で、父子二代に亘っての幽冥界交通の御蹤述は、
とりもなおさず、宮地仙道の鞏固たる地盤を物語る、一證左というべきである。

水位先生は、幼名政衛、諱(いみな)は政昭、十九歳にして、政海と改められ、廿一歳にして堅磐と改名された。

水位と号されたのは、廿二歳の頃で、少彦名神より名づけられし号である。
(また、三十歳の頃、中和と号せられたこともある。晩年は、再来(よりき)と改名された。)

宮地家は、日本武尊十五代の後裔、宮道信勝大人に出で、天正年間、土佐潮江天満宮に奉仕されて以来、水位先生に至るまで、
三百五十年間に亘(わた)り、同社の祀官たりし家柄であった。

先生は、明治三十七年三月二日、五十三歳を以て尸を解かれ、再び神仙界に帰られたのであるが、
現界御在世中は、文字通り、御足跡宇内に遍く、親しく肉身を以て、北辰星中紫微上官を始め、
神集岳萬霊神岳を中心とする七十二神界、七十八霊境、地上随所の諸仙境、霊界、山人天狗界に至るまで詳さに跋渉(ばっしょう)され、
異境に於ける実見実聞の知識を求められる一面、攷々(こうこう)として、和漢の学を修められ、堂々明治中期に於ける、
一硯学としての位置を占められて居り、特に皇典及び、道蔵に関する分野に於いては、其の天賦の霊的英資を以て、
全人未踏の境地を開拓されたのである。

殊に、本道の精華たるべき求道の微旨に至りては、親しく高貴の大神仙や師仙から直接指教を受けられたもので、これ宮地仙道が、
在来の訛伝虚誕妄説混交せる、所謂(いわゆる)神仙道界に、清新なる一紀元を劃し、卓然として、衣を払う所以(ゆえん)である。

斯くて、天来の玄理秘儀、神仙界直流の実際知識をもたらされた御著述は、その御健筆振り、平田篤胤先生にも
髣髴(ほうふつ)たるものがあり、殆ど長持二棹にも及ぶ程であったが、御帰天後、数箇所に分割保存され、その一部分は、
宮地文庫として高知図書館に保管されていたが、惜しい哉、戦火によって全部炎上されてしまった。

(水位先生肉筆になる神集岳神界秘図の原本をはじめ、尊貴なる諸眞形秘図も、この時数多炎上して、天上の玄臺に還られたのである。)

これより前、潮江天満宮社務所に秘蔵されていたものも、原因不明の火災によりて炎上し、分家たる北村家所蔵に係るものも、
今次の戦災によって、残編全部、祝融の神の召されるるところとなった。

斯くて、比類なき貴重文献が漸時として炎上され、或は時日の経過と倶に、散逸亡快に帰せんとするに於ては、斯道の為、
まことに悲しむべきであるとして、遂に因縁の地、四国の霊学書店 東方書院の発願により、水位先生御遺稿全集上木の義舉が進められ、
水位先生後嗣たる、宮地美数翁によりて、現存御遺稿の募集整理が行われつつあり、軈(やが)て斯道研修上の貴重文献が、
漸次(ぜんじ)として、公開されんとしていることは、大道開明の為、極めて慶賀すべきであると倶に、水位先生御在天の御意思の程も窺われ、
一層吾ら門末後学の精進が要請される次第である。

本書は、取敢えず、著者の手許に存する先師の御遺著に據(よ)り、謹みて宮地仙道の大意を編述し、「宮地仙道要義」の題名下に
唐突刊に付した次第であるが。
龍の霊たるや、片鱗残甲を雖(いえど)も、亦霊なり、幸にこの小著が、吉士結縁の一助ともならば、著者の念願これに如くはない。

宮地神仙道の沿革及び霊統

 

我父 常磐大人 三十六歳までは、武術を好みて剣術、砲術、弓術は別けて其道に達し、何れの處(ところ)にても、先生と仰ぎ敬されしに、
父が砲術の師たる田所氏、或日父を招きて云いらけく、足下神主の家に生れながら、神明に仕うる勤めを捨て、年来武術を好み、
其奥義を得んとして、砲術は其極に至ると雖(いえど)も、我職務に暗きは、実に生涯の恥辱なり、我職務を怠りては、神明に対し、
第一の不敬なり。
足下、武術に心を入れて粉骨するが如く、神明に奉仕すべしと示諭せられけるにぞ。

之に感服して、三十七歳の正月元旦より武術を止め、毎夜子刻より起きて、寒暖霜雪の間も休息する事なく、地上に立ち、天を拝し、
次に神前に向かい、祈白する事、巳の刻にして竟りさて、朝膳を食す。

夕は、日暮より五つ時(今の八時迄)に及ぶ。
我父の有状を見るに、雪の夜などは、庭前の石上に坐して、祭服にふりかかる雪は氷となり、之を握れば、服と共に氷りたり。
されども、倦まず手を組み、空に向かいて慇懃に祈白すること、二時ばかりにして、家に入り、神前に向かいて、又礼拝すること
十年を積み、漸く大山祇命に拝謁するを得て、益々魂を凝らし、終に海神界、及び諸神界に通ずる事をも得、又天狗界の者をも
使う事を得て、行く程に、畏くも大山祇命の御依頼によりて、土佐国吾川郡 安居村の高山 手箱山と云うを開山し、大山祇命を鎮祭し奉り、
衆人を集えて、大鎖三十六尋を、此山にかけたり。

(つづく)

眞一

 

凡(おおよ)そ天地の眞理深遠の根元を無量に亘(わた)り、其置くの道機を極めんとするには、天地未だあらざるの初、盧廓寂寥の時に
自然らに生れ出で、恍惚の間に独立したる心持にて、目前より空中より、一点眞精の元気流動して、二元素となり、分れて五元素となり、
散じて七十有余の元素と分離し、宇宙に充満し、漸々に凝結して造化の状を見し、混成の有体を見るが如く、感格の神識を以ち、凝して
念にうつし、気理の働出、及び森羅万象の化生に至る迄も、天主の元素により、陶造するところの大業を輔くるが如き大謄なる心持にて
熟思し理を極めずんば、此の大地に当世生れて、卑賎の民間に起居する思いを持てば、実の妙理は、覚り得るべき業にはあらずぞかし。

 

此処に至らんとするには、感念の二物を以て是を有形に推し、此の元素凝結の有体を以て、是を無形の元素に究る時は通ぜざるの理あらむや。

異形異物、皆元素の変化なれば、期ありて又、無形体の元素に復還す。故に、有無の一、物其実一物なり。
此を以て、有体物は元素の変化なれば、萬物皆一体の理あり、故に、人を以て小天地となしたるは是なり。

又、有体物変ずる時は、無形に還る、此を以て有無入出輪転する事、環の端なきが如し。
萬物一体たるの理あれば、必ず其源に遡りて、其妙理を極る事の難き理あらむや。

(つづく)

 

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