第四元の戦力

(「古道」より)

昭和二十一年七月一日

清水斎徳

内閣告諭に示された 「死生一如の日本魂」

 

本年六月廿六日の内閣告諭は、沖縄失陥を契機として、新たなる本土侵寇預期せざるを得ずと為し、
「正に元寇以来の困難にして、帝国の存亡を決するの秋」が到来したと宣明している。

政府は帝国存亡の關頭に立ちて、「聖旨を奉体、死生一如の日本魂に徹して自奮自励、愈々(いよいよ)
加わるべき苦難に堪(た)え、一切の行動を戦勝の一途に集中し、誓って困難を打開」すべきことを要望して
いる。

我が天行居が廿余年前より大声疾呼して天下に警策し続けて來た要旨も、畢竟するに、今日の国難來を
説き、「死生一如の日本魂に徹して、一切の行動を戦勝の一途に集中せよ」ということであった。

今にして政府が要請するところのものは、天行居が過去廿余年間に亘(わた)って、切切強調し來った
大旨と規を一にするのである。

戦勝の原動力たる「死生一如の日本魂」とは何か。
刻下の情勢は、すでに言語論議の沙汰ではないのであるが、国家興亡の岐路に立ちて、一国の政府が
内閣告諭の形式を以て国民に要請するところの根本義に触れてをくことは、古神道の信奉者たる吾らとして
決して無意義なこととは思えないのである。

況(いわん)や、吾ら天行居同志には、春風秋雨幾十星霜を、朝念暮思、寤寐恒一、死生一如の日本魂に
徹すべく、実頭実地に工夫錬磨が重ねられて來たのである。

天行居の事業たる古神道宣布の眼目も、「死生一如の日本魂」に徹せしめる事が要旨となって來た筈である。

石城山開闢前後の古道誌上にては、天行居の標語として、神人合一、幽顕不二の眞覚玄悟は、古神道の
大旨であり、吾らが修養努力の根本義であるということが、連月に亘りて特筆大書されているが、
神人合一、幽顕不二の眞覚玄悟とは、即ち「死生一如の日本魂」の別称に他ならぬ。

石城山道場が開設されたのは昭和三年の夏で、今から十七年も前のことであるが、石城山道場は実に、
忠魂義膽の覚成道場であるということが、其の当時の声明にもあって、力強く之を裏書きしているのである。

然(しか)らば、天行居の標語とするところの神人合一、幽顕不二とは何ぞや。
之を究明すれば、自ら「死生一如」の意義も分明となるのである。

死とは何ぞや、生とは何ぞや。
之を禅家に問えば、無用の葛藤に堕ずる。
去って儒家に見参してみたところで、未だ生を知らず、焉(いずくん)ぞ死を死らんやと、逃げを張られるのが
落ちであろう。

それでは、「死後の安心」の本家顔を御座る本願寺へ献金でもして、後生を希(こいねが)っておくさ、という
底の安悟りでは、一切の行動を、戦勝の一途に集中し、此の曠古の大国難を乗り切る芸当は六かしいので
ある。

生とは何ぞや、死とは何ぞや、死生一如とは何ぞや。
他人事ではなく、自らの問題である。

今や一国の政府が、国民の一人ひとりに向って要請しているところの、非常の覚悟である。
而(しか)して政府は、「死生一如の日本魂」を標榜する以上、其の明確なる定義を提示する用意を有つべきで
あると信ずるが、果して如何であろうか。

吾々日本人の眞個の死生一如観は、果して如何にある可き乎(や)、人生観至高のそうした命題については、
我が天行居に於(おい)て是れ亦数万ページに亘(わた)る応答書となって公刊され、究尽説尽至らざるは
なしと信ずるのである。

然るに、世人の多くは、ユダヤの謀略たる物質万能の唯物思想に幻惑し、甘美なる自由主義謳歌の毒酒に
酔い痴れて、斯(かか)る問題は畢竟するに、陳腐なる形而上の観念遊戯に過ぎずと為し、一顧だに値せざる
ものとして、鼻頭に笑殺し去ったのである。

大町桂月莫逆の友で、外務省弔旗事件の張本人たりし道別松本順吉の時勢を痛憤した歌に、
「父親が豪奢を誇るシャンデリーに、子はマルクスの書(ふみ)や読むらん」
とあり、世は挙げて滔々たる悪魔思想の囮(おとり)と果て去るかに思われた。

カンガカリズムという新語を製造して、嘲笑と侮蔑の新構想を案出したのも、ユダヤ謀略の産物である。

我れこそは愛国者なれと、眉を挙げ、肩を聳(そびや)かせて昂然(こうぜん)たる、所謂愛国国体と自称する
ものからしてが、吾らを目して、「高天原党」と別者扱いにしたのである。

神人合一、幽顕不二の大旆は、果して陳腐なる「高天原党」の観念遊戯に過ぎなかったであろうか。

今や帝国存亡の關頭に立ちて、政府は明らかに国民の「日本魂」に依存する国難打開を要請
しているではないか。

一世を風靡した唯物思想も自由主義も、国家を存亡の岐路に立たしむるには奏功したであろうが、社稷を
磐石の安きに置き、国民を危急に済う所以にあらざりしことを明記すべきである。

幽顕不二、死生一如に徹した魂の確立、日本人本來の面目に立ち還った純乎不雑の絶対力に依存せずして
此の未曾有の国難突破は期し得べからざることを、一国の政府告諭の名に於て要望するに至ったことを
明記すべきである。

凡ゆる行動、一切の思念を戦勝の一途に集中する基底となるもの、これ実に幽顕不二の覚悟であり、
死生一如の日本魂である。
此の正直不雑の日本精神こそ実に戦力の根元となるもので、戦陣訓(本訓其二第七死生観)にも、死生を
貫く崇高なる精神を説き、生死を超越して従客として悠久の大義に生くることの悦びを述べてある。

銃前銃後なる文字は、すでに解消された。
日本国は直ちに一大兵営となり、戦陣と化した。
一億の国民尽(ことごと)く醜の御楯であるという現実感が、今こそ魂の奥から発露したのである。

軍官民を通し、一切の日本人が、生死一貫の大なる精神力を最高度に発揮して、一意国難突破を期すべく
大号令がかけられたのである。
従客として悠久の大義に生くることの悦び、それは神人合一、幽顕不二の実相より、発出するものに
他ならぬ。

死生一如の日本魂、この魂の臨戦姿勢に一点の疑著なきやを自ら検討せよ。
天行居は実に此の重大問題の応答者として、天意に憑て出現し、今日に用意されたものである。

 

必勝の信念は、万邦無比の国体に深淵す

 

曠古未曾有の大黒難を乗切る為めには、国民一人々々が磐石の如き必勝の信念を持たねばならぬ。
一たい必勝の信念というものは、抽象的な概念ではない。
本來我が国体から離れたものではないのである。
戦陣訓にも、信は力なりとあり、信念はそのまま一個の獨立した実在の力である。
神州日本国の国体がそのままにして、神秘極まる大実力であるからして、必勝の信念も亦、之に従って
神秘極まる大実力であるのである。

必勝の信念というものが、単に概念的なもの、観念的なものであるならば、一国文化の粋を蒐め、化学の華を
結んだ大都市が一朝にして焼野原と化ったという、槿花一朝の夢といった場合に逢著するとき、果して
幾何の動揺を感ずることなきや。

或は営々数ヶ年に亘ったという大軍事施設が、僅々数時間の空爆によって壊滅に帰したという様な場合を
想見するとき、果して一抹の暗影を感ずることなきや。

必勝の信念というものが、国体から離れたものでなく、実に天攘無窮の神勅とともに、炳乎として厳存する
以上、或は家財を焼かれ、工場を灰にしたという一個半個のケチな理由からして、微動だにすべき筋合いの
ものではない。

羅災者を身よ。
例外もあろうが、其の多くは却って朗らかで、意気軒昂としている。
或者は、これで一人前の男になった様な気がするという。
或者は、身辺無雑の憂を掃して、見敵必殺の突撃精神とでもいうものが出て参ったという。
或は、何処からか唆(そその)かされるような、仁王立ちの気魄を生じたという。
一つのミソギの徳とでもいえようか。

眼前に起伏する一時的な、局部的な波紋に一喜一憂するには及ばぬことである。
目前事象の奈何に拘(こだわ)らず、戦局の一起伏に關(かん)せず、吾らは一決して苦戦必勝の信念を
確立している。

偉大な、そして千萬世を洞見せられている優れた劇作家であらせられる神様の雄大なシナリオには、人間的
頭脳で割り切れぬ、測り難い、深い遠い玄妙の神意がもられてある事を識らねばらなぬ。
此の大地を、時速六萬六千六百哩の快速力でブッ飛ばして居られる神様の巨大な力を疑ってはならぬ。

此の廻り舞台を千両役者や、大根役者や、或は腸を千切る様なという悲絶にして壮絶な場面や、人寰様々な
千紫萬紅の葛藤を載せたまま、シナリオのまにまに、縁の下のからくり棒を肩に押しあてて、のっしのっしと
廻らせて行くという、目に見えない吾らの努力を懐疑してはならぬ。

宇宙を生成し、大千世界に雄大なる経輪を垂れ玉う、神様のシナリオを批判することは、未來永劫到底に
許されぬことである。
それは天意の于犯である。

疑うらくは、去って皇典を拝読せよ。高天原にも大機はあった。
暗黒は地上のみに限らなかったのである。

記曰爾高天原皆暗。
葦原中国悉闇。
因此而常夜往。
於此萬神之声者。
狭縄那須皆満。
萬妖悉発と。

又た記曰。
故六合之内常闇。
而不知昼夜之相代と。

又た捨遺曰。
爾乃六合常闇。
昼夜不分。
群神愁迷。
手足罔措と。

謂うところの天岩戸開き、日神之光六合。
天高原及葦原中国自得照明の光明世界の出現、すなわち天關(かん)打開の直前には、厳粛なる
事実として、闇暗世界が現出したのである。

闇暗世界の地上への応現、それは天開打開に至る必然の過程である。
いま詳説すべからず、言に含糊を免れ難いのは、忌むところあるが為めである。

春風を截って飛ぶ花蝶にも、忍苦の生態時代はあった。
今日の花蝶は、昨日まで闇黒を喞(かこ)った蛹蛾であったのである。
それは尊い忍従の過程であった。
新しい生命への飛躍を約束づけられた祝福すべき陣痛であった。
些々たる昆蟲の生態の上にさえ現れる宇宙大生命の神秘現象である。

眞の神国顕現の為めのみそぎ祓い、それも亦(また)、宇宙大生命の通う国土生成上の一つの神変である。

少なくとも、千年以來の運命であるという、此の曠古の大神変時代を、手足罔措、ただ無策にして徒に
右顧し左盻する者ありとせば、不忠の罪を千載に負うであろう。

天意に憑て、太古神法の正系を紹統し、幽顕交流の鍵を握れる我が天行居が、一億一心 神咒奉唱を提唱し、
皇祖天照大御神の御神威発動を悃祷しつつ、磐石の如き必勝の信念を彌太に凝り為して、此の闇暗時代を
一瀉千里に強行突破せんとする意図は、決して以て偶然の思いつきではないのである。

 

神異史実と第四元の戦力

 

吾々は、神異史実の伝承を確信すると倶に、「第四元の戦力」が、実在することを信ずるものである。
私は嘗(かつ)て或る方面から戦力の三元説というのを、承ったことがある。

それは、戦力を合理的に検討しようとするもので、従來戦力を説明するに当り、主として量と質ということを
取り扱ったのに対し、更に一歩進めて三次元の立体積的構想を加えたものである。

それは戦力を一つの立体積と仮定して、長さを智元とし、厚さを量元とし、更に營元を設けたことである。

すなわち、戦力(立体積)=智元(長さ)×量元(厚さ)×營元(幅)という関係が成立するわけで、戦力を此の
三元を以て分析究明するという構想である。

量元はいう迄もなく、数量である。
智元は例えば兵器――鉄砲、飛行機、軍艦などの優秀さ、性能といったものを示す。
之を軍隊でいえば、智元は兵の素質や装備、量元は師ふ数である。

此の二元では、僅かに平面を形づくるだけであるが、之に營元を加えて、初めて立体積を形づくり力となる、というのである。

其の營元とは即ち総帥、経營運用等を意味する元である。
従前の戦局に就いていえば、彼我両軍の智元、すなわち兵器の性能は先づ相伯仲するとしても、量元に
於いては、敵は圧倒的に優勢である。
此の量元の貧弱性は、どうしても營元によって補足して、勝機を捉えねばならぬというのである。

ガダルカナルの線で、彼我の決戦が行われるとせば、量元、智元ともに劣る日本としては、一寸勝目に乏しい。
一度反転して近くに敵を引つけた營元、すなわち統帥力によって量と質を補い、又た絶大なる神風特別攻撃隊という、
世界無比の營元によって戦局の維持を計り、神機を捉えて攻勢に転移しようというのである。

敵は量元万能である。
量には量を以て対しなければならぬ一面の理由が存する以上、そして量を特長とする敵との差を縮めることが
刻下の急務である以上、戦力増強の為に、量元が重点化されることも当然である。

それと同時に、智元の指導ということを軽視しては、資源の絶対量の少い日本としては、戦局の急速なる進展は望めない。
技術院や文部省という、智元の源泉が重要視されて來たのも、その所以(ゆえん)は茲(ここ)に存すると
信ずるのである。

量元を以て、逆に敵を圧倒するという様なことは、資源の上から、或いは地域的な関係から考えても、遥かに
首肯し難いところである。
いま国民が、常識的に冀(こいねが)うところは、智元を速やかに、敵の水準以上に挙げる実例を示すことと、
營元が敵の追従を許さない、日本特有のの長所であることを、今後実例を以て示すことであろうが、
茲(ここ)に吾々は、此の三元の戦力の外に「四元の戦力」ともいうべきものが現存し、此の戦力は三元の
戦力の各個に交渉して之が増強、綜合発揮の面に強力な影響を及すということの外に、一個の独立した
戦力として働く場合があることを力説したいのである。

「戦力の第四元」説、それは何も新しい思いつきでもなく、又た用語の新奇を衒(てら)わんとするものでも
ない。
その事実は悠久の歴史の流れと倶に存するもので、古往東西の幾多の戦史の上に昭々たる実蹟が存する
のである。

或は一国の運命を賭けた大作戦の成否に繋がるという場合や、或は大小の部隊戦闘に際して、小にして
個人の陣中行動に至るまで、直接間接この「第四元の戦力」が働いた場合は、枚挙に遑(いとま)なしと
言い得よう。

西洋史を繙いたものは静かに百年戦争に於けるジャンダークの行動を想い起してみることも、大いに参考と
なろう。

勝ちに乗じたイギリスの軍隊が、フランスの国土に侵寇し、蹂躙残虐の限りをつくしている時、突如として
蹶起した羊飼いの娘ジャンダークが、敗残のフランス軍を指揮して用兵作戦の妙を極め、疾風枯葉を掃うが
如く驕敵を掃蕩し去った奇蹟は、単なる營元の戦力として、軽評し去ることを許さぬのである。

これは明かに「戦力の第四元」が強力に營元に働きかけたものである。
然らば此の「第四元の戦力」は、如何にして構成されているか。
科学的な、分析的な定義を下せということになると、これは相関連する面、交渉する世界が世界だけに
一寸簡単には表現出来かねるのではないかと思われるのである。
既に長さと厚さと幅の三次元空間になぞらえた「力三元説」の外に之を四次元空間にとって「四元の戦力」
として仮称した茲(ここ)に存するのである。

戦争は単に資源だけでやるのはない。
生きて働く人と人との戦である以上、其の「生ける人」を操り、「生ける人の力」限定する霊的次元の存在を
吾々は力強く指呼したいのである。
更に民族を背景とし、国家を背景とする超次元の世界の交渉に目を蔽ってはならぬのである。
その霊的次元の力は当時量、智、營の三元に亘って働きかけてはいるが、それが特殊な条件と方法を以て
する場合、一層的確であり、強力であり、更に此の第四元は、一個の独立した戦力として、突如として
決定的な行動を起す場合があるということを指摘したいのである。

天祐といい、神助という、勿論これは「第四元の戦力」の発動である。
神武天皇御東征に於ける高倉下の神劔降下、八咫烏の先導、金鵄の奇瑞、是等の言巻も畏き神異史実を、
神話時代の延長的伝説と軽評し去る輩は、今次支那事変及大東亜戦争に際して現れた数限りない天祐神助
をも「偶然」の現象として片づけるだけの根拠を持ち合わせているのであろうか。

偶然と称するのも厳然たる一つの現象であり、事実である。
それは一つの事実あることに間違いはないが、科学的に其の事実を構成する要因を説明することが出来ない
からという理由だけで、其の事実の全部を否定し去ろうとする思考方法は頭脳の健全なものの採る態度では
ない。

科学を妄信するの余り、所謂科学的思考方法の缺陥と錯誤に気づかずして、随分と勇敢な断定を下している
実例は相当にある。

更に、元寇の際の神風となると、これは天祐神助の代表的なもので、第四元の戦力が単独的に行動した
決定的な場合に該当する。
元軍兵艦三千余艘、忻都、洪茶丘の率ゆる蒙漢の軍四萬、笵文虎の率ゆる蠻軍十萬、金方慶の率ゆる
高麗軍艦九百、兵一萬、水手一萬五千、総数兵艦大約四千艘、兵約十七萬、肥筑の間賊艦海を蔽(おお)う。

眞に国家は累卵の危うきに臨んだのである。

我が兵海岸に羅布して善戦健闘、之を禦(ふせ)ぐこと六十余日、諸国こうこうとして、訛言流伝し、或は
賊長門より徑ちに京師に趨(おもむ)くと曰い、或は東海を擣(つ)くと曰い、或は北陸に入ると喧伝されたので
ある。

天皇神祇官に降臨し、親しく祷り給うことを七昼夜、龜山上皇は石清水に詣でて旦に達するまで黙祷し給い、
又権大納言藤原徑任を伊勢に遣され、宸筆の願文を大神宮に奉り、御身を以て国難に代わらんことを祈らせ
給うたのである。

誠に畏き極みである。
時に海中青龍あらわれ、硫黄の気天に張る。
賊将范文虎、大に憚(はばか)れ堅舟に乗じ、師を棄てて漸(ようや)くにして遁(のが)れたが、翌七月晦
夜風一驅、海濤崩駭し、戦艦砕け覆り、溺るる者算なく、浮屍海を蔽い、之を望むに洲の如く、生還する者
僅かに三人と伝えられる。

更に、彼の奉天大会戦に於ける大風はどうであろうか。
乾坤一擲、帝国の運命を賭した最後的大決戦に際し、突如として黄塵萬上、露軍をして面を向くること
能わざらしめた、あの勝利の大風は、実に季節よりは三ヶ月も早く吹いたのである。

これを尚お偶然の所為と論断し去る言葉は、論理を破壊せざる限り、人間の声帯からは出せないのである。
古来大風の吹くは、畏き神慮に出づること多しと伝えられているが、第四元の戦力が、「偶然の如き形式」を
以て発動することは、枚挙に遑(いとま)ない事実である。

更に極めて最近の事例として、キスカ島撤収にまつわる神異現象は、吾らの記憶に新しきところである。

敵の監視艇が撤収船入港の直前に出港して行ったという事実や、濃霧に鎖された同島が、
撤収船到着の寸前に霽(は)れ渡って、纔(わず)かに島影を発見する事が出来、寸時にして復び深い濃霧に
包まれて、敵の哨戒から撤収行動を完全に守ったという事実は、或は偶然黨の論駁の対象となり得るかも
知れぬ。
然(しか)し、撤収部隊の勇士たちが、撤収の途上でしばしば遭遇したという、扁舟に日の丸を掲げた
謎の日本兵達は、一体何者であろうか。
朔風吹きすさぶ北海の洋上、大型船舶の航行すら不自由である。
況(いわん)や、敵の哨戒は厳重を極め、既に絶海の孤島アッツ玉砕後の同洋上周辺には、
友軍の蜃気楼だにあるべき筈はない。
而(しか)も、○十時間を要する航程である。
その広漠たる海上に一葉の扁舟を浮かべ、日の丸を打ち振って撤収船部隊を送迎し、
「我々は此処にいるぞ、しっかりやれ」と激励したという、部隊長や参謀を初め、多くの目撃者達が、
「アッツ英霊の出現なり」と襟を正して語る此の神異を、幻覚の作用で片づけるわけには参るまい。

更に、キスカ島神秘の撤収後、猫の子一匹いない同島を、実に一週間に亘って、米軍は攻撃を繰り返して
いるのである。

物量を誇る敵が、或は空爆に、或るは艦砲射撃に、此の怪奇なる無人島攻撃に費やした消耗は、夥しい額に
達したことと想像される。
而(しか)も此の無人のキスカ島攻撃に当り、敵は同島から高射砲を始め、相当の抵抗を受けたことを
発表している。

無人の孤島から抵抗する高射砲や鉄砲弾、それは一体何者の為す所業であろうか。
一週間に亘って、敵の熾烈なる攻撃に抵抗した、影なき戦闘部隊、吾らの指摘する「第四元の戦力」は、
抽象的な概念ではないのである。

ひとりキスカの事例に止まらず、古来戦力としての神異史実の存在は、枚挙に遑(いとま)がないのである。
前のキスカの影なき戦闘部隊の如き、「第四元の戦力」が、独立行動した場合の一つの事例である。

此の第四元の戦力こそは、我が国体に淵源する世界に比類なきものであって、実に綜合戦力の基盤を為し、
力強い底流となっているものである。

私は、戦力=智元+量元+營元+第四元の戦力といった観念でなしに、戦力=第四元(智元+量元+營元)
+第四元といった表現方法を採った方が、説明の当を得ていると思うのである。
(最初の第四元は、三元の戦力の各個に交流するもの、最後の第四元は、独立行動を為す場合の元を
示す)

専門家の中にも、此の第四元に相当する霊的次元の戦力に注目している人は、相当にあるのではないかと
考える。

某将軍が戦力の色んな部面を説かれた中にも、戦力も
「例えば、時という様な元を加えねば結論に到着しない」もので、
「其の究極は、国の歴史に連る悠遠なものであって、天壌無窮の皇基そのものであると信ずる」
と謂われたのは、体験的な霊感に基くもので、達人の達言というべく、吾々の信念を代弁せられた如くに
感ぜられるのである。

世人の多くが、形而上の問題として、或は関心を有するが如く、或は有せざるが如き面に、
一挙戦局を左右するが如き、強大なる戦力の底流が渦巻いているのである。
天行居では、二十余年前來、霊的国防ということを呼号し、大機に於ける大神威の発動を祷請して、
霊的施設を敷施し來ったのであるが、其の努力の指向は申すまでもなく、第四元の戦力に関連する
ものである。

世を挙げて平和の春を謳歌し、三元の戦力が沈黙に帰している時でも、第四元の戦力は時空を超越して
戦われて來たのである。

今を去る廿二年前、大正十三年六月十八日、我が神道天行居創立者の、友清歓真先生が記された
闢神霧には次の如く冒頭されている。

日本は近く、米国と戦わねばならぬ。
それも、思想上の戦争とか、経済上の競争とか云う意味ではなく、武力を以てする戦闘である。
準備の有無に関わらず、利害の打算を超越して、近き将來において断固として開戦しなければならぬ。

吾等は戦争を好むものではない。固より平和を愛するものである。
而(しか)して今日のデリケートなる国際心理の焦点に置かれてある日本国の一員として、
いかにも好戦民族の如き不利益なる感情を列国に与えるような意思を表示することは、甚(はなは)だ
不謹慎の嫌いがあるようであるが、事は確立して居る登録済みの事実であり、時は甚だ切迫している
危急の際の今日であるから、わが同士諸君の一大覚悟を喚起する為に、日本国家が米国に対して
宣戦を布告するに先だち、我が天行居は米国の霊界に対して、公明正大に開戦を宣言するものである。

來るべき日米戦争は、実は日米戦争にあらずして、太古より計画されたる神魔両軍の関ヶ原であって、
米国は世界の魔軍の代表者として、主力として選ばれたるものに外ならぬ(中略)
天(アメ)なるや、五十鈴の川上に鎮まり給う、掛巻くもかしこき天照皇大神の神勅は、建国以來日月と偕に
六合にあまねき活ける経輪であって、天に太陽あるが如く、地に日本皇室ありて、世界の平和と安寧と
幸福と光栄とを統一維持せらるべきカムナガラの一大約束の実現せらるべき大機の到來である。

すなわち、吾らの期するところは、地上の全人類に日本皇室の御威光を仰がしむることに外ならぬ。
それにはどうしても、戦勝ということが重大とも重大なる一齣を書くこととなるのである。

霊的国防の重大使命を天意に承け、天行神軍が組織されたのは、昭和三年七月十九日、その使命の
中心とするところは、神祇信仰の威力を以て、家国民人の守護に任じ、天壌無窮の皇運を扶翼し奉ることに
あった。

その精神は、神州の正気と倶に、永遠の将來に向かって伝承されるのであるが、その負荷の重大なる
今日に如くはない。

政府の宣明するが如く、正に皇国興廃の秋、神州存亡の大機である。
日本国を生み、日本国を守り玉う天神地祇が、超次元の戦力を縦横に発動される日は、目睫の間に迫った。
十八年の天津風、祈りに祈り、待ちに待った大機中の正念場は遂に到來した。

吾らの心境は白匁の如く澄み切っている。
七生滅賊の大気魄は、炬火の如くに燃え上がっている。

わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば、煙はうすし櫻島山。
この気魄、触るるものをして、何者をも焼き尽くさずんば止まぬであろう。
只如何なる混乱の中にありとも、「自己の眞性」を見失わぬ者がはじめて二十億蒼生の罪を荷(ニナ)いて、
神の前に立つことを許さるるのである。

此の際、此の秋、更めて自己というものを見直し、自らの魂を確立せよ。
それは天に参じ、地に参ずる根本要件である。

 

 

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