矢野 玄道

(やの はるみち、文政6年(1823年)11月17日 - 明治20年(1887年)5月19日)は、伊予国喜多郡阿蔵村有松(現、愛媛県大洲市)の
国学者・神道学者である。

幼名は茂太郎、道号は天放散人・子清・神臣・谷倶久・後楽閑人・扶桑眞人倚松。
本姓平(佐奈田余一義忠次男中山次郎盛実末)。

<略年譜>

文政6年(1823年) 大洲藩士矢野仙左衛門道正の子として、伊予国喜多郡に生まれる。

文政8年(1825年) 三・四歳の頃、祖母の懐中に在りて千字文の類を読誦す。

文政10年(1827年) 父道正に就き書道を始める。

文政11年(1828年) 此の頃より父に就き四書の素読を受ける。

天保4年(1833年)に平田篤胤に入門した父の勧めで国学を志す。

天保9年(1838年) 道蔵を始めとする老荘思想の書物を書写。
後年に「蒲柳の質である私が長生できたのは若輩の頃、道家の教義を精読熟考し実践してきた事による」と回想。
又此の頃より古典を読む。

天保11年(1840年) 松山の日下伯巌の塾(明教館)に入門。

天保12年(1841年) 玄道19歳の折、名を敬逵(たかみち)と称し扶桑真人倚松と号す。

天保14年(1843年) 此の春より、医学を学び蘭学を始める。
又橘家神道の傳を受ける。

弘化元年(1844年) 二月下旬周防から長門を経由して、豊後の宇佐八幡宮や筑紫国の筥崎宮、太宰府天満宮などを参拝し、
日向の神代古蹟を探訪後、薩摩の霧島神宮を参詣のち霧島山に登る。
以後肥後を経て熊本の阿蘇山に上がり帰来して見聞記を録す。
この頃自らの名を真弓と称していたが、旅より帰来した後感ずるところありて、玄道と名を改める。

弘化2年(1845年) 京都に上洛し、新宮涼庭の順正書院に入塾。
伴信友や八田知紀を訪ねて交流す。

弘化3年(1846年) 江戸に入府し、平田家を訪ねて鐡胤に面会する。
平田銕胤より篤胤の稿本である『赤縣太古傳』を借覧して読み、国学についての自分の 描いてきた思いと篤胤の理念が同じである事を知り、
「手の舞足の踏む所を知らないほど嬉しく感激した」(日記)

弘化4年(1847年) 正月19日正式に平田家に入門する。
また24日には昌平黌に入塾する。

嘉永2年(1849年)12月5日(旧暦) 伊吹廼屋塾蔵版として出版された『赤縣太古傳』の序文を執筆。
この頃より、名を谷具久(たにぐく)と称す。

嘉永4年(1851年) 再び上洛し、向日神社神官の六人部是香と知り合い、
平田篤胤の代表的な著書で門下生でも閲覧を許されなかった『古史傳』の写本を全巻借り受け、国学・神学を極めた。

嘉永5年(1852年) 正月鳩居堂に寓居す。皇学所設置の建白書を提出す。

嘉永6年(1853年) 此の頃までに成れる書として、文献通考経籍考、野史、星祭附考、橘家私記、橘家祝詞正文、弓矢義考、御鎮座記成文、
御鎮座傳、心御柱考、老子考、養生梯、枕中記附録、祝詞集、少名彦那神御傳記、河野世系、平氏世家、神史談、玉藻羽振集、真柱百首、
塗説録、幽界證語、地獄物語、諸呪傳、諸薬方 天神壽詞後釈 二十二社考etcあり。

安政2年(1855年) ライフワークの一つでもある『皇典翼』の執筆を開始。

慶応元年(1865年) 京都で新撰組に捕縛されるが、解放されて九死に一生を得る。
この年皇国の大基本を立つ可き為に大宮大祀校を建て、又貧院幼院教院病院等を設置あらむことを薩長藩主に建言する。
この年5月より、『神典翼』の執筆にかかる。

慶応3年(1867年) 建白書が朝廷で議論され、設置の方向で話が進む。

明治元年(1868年) 2月、神祇官に召されしがこれを辞す。
同3月、内国事務局権判事に任ぜられ、大学規制取調を命じられ、皇学所学官に加えられる。

明治3年(1870年) 2月、東京に召され、大学中博士となり従六位に叙せられる。

明治4年(1871年) 3月、明治天皇御即位の後ある建白をした事が機微に触れ不審ありとて岡山藩邸に預けらる。
5月、郷里に謹慎の身となり、9月、赦される。

明治6年(1873年) 9月2日八田知紀没す。此の年仮名神代記、手間天神御傳記、神典拾葉抄、皇国神仙記、麻奈婆志良、大道のしるべ、
及び附録、神道のしるべ成る。

明治7年(1874年) 11月27日平田家より古史傳続撰の依頼がある。

明治10年(1877年) 玄道55歳の五月より病みて久しく回復せず、2月から3月にかけて、魂神要論及び本教学柱を書き上げる。
弟直道、親友常磐井精戈と上京。
12月15日 太政官修史館御用掛を任じられる。

明治11年(1878年) 6月、正七位に叙せられ、宮内省御系譜掛となる。
明治11年〜19年にかけ 平田篤胤未完の『古史傳』を平田家の依頼により、29巻〜37巻まで完成させる。

明治13年(1880年 1月かみのみてしろ 2月宝剣御代官考を撰す。4月〜5月にかけて書き上げた草稿、釈日本紀私記及び、
みがほしみやの二冊が天覧に供せられる。
10月25日平田銕胤没す。12月6日神道事務局に嘱せられるが辞す。

明治15年(1882年) 皇典講究所の初代文学部長になる。

明治16年(1883年 1月19日御系譜勤務となる。続皇国神仙記完成す。

明治17年(1884年) 図書寮御用掛に転ず。是より先平田翁の著作歌道大意出版に付き校訂して、併せて序文を作り2月に成る。

明治18年(1885年) この年3月玄道は感ずる処あって土佐潮江天満宮に来遊し、神官宮地水位翁より禁厭や数冊の玄学に関する
資料の模写本を譲り受ける。

明治19年(1886年) 帰郷し、母親の介護に当たるが、12月14日に母親が亡くなる。

明治20年 (1887年)5月19日の夜病気により死去す。謚を稜威之道別命といふ。享年65。

 

参考資料  矢野玄道五十年記念号 矢野太郎篇 傳記学会

 

<人格>

玄道は青年時に学んだ老荘思想の影響により、名誉や高い地位を求めず、また、妻を娶る事なく一生独身で通し、他の事に一切構わず、
一心不乱に国学の研鑽に励み、一生を国学の著書の執筆に捧げた。

読書をすると、必ず大事な所や学者の考えを書き残し、記憶に留める事を忘れなかった。
まさに博覧強記で、玄道の筆写した書物の数は、約700巻にも及んでおり、大洲市立図書館にある矢野文庫には、
子孫が寄贈した玄道蒐集の本や論考の大半が保存されている。

中でも『神典翼』・『皇典翼』の二冊は玄道の学問に対する情熱が込められており、国学史上においても重要な書物である。
これら二冊の書物は戦前に国民文化研究所から出版された。
ただし、2巻とも未完である。

当時の出版社の由緒書きによると、

「此の書は平田派国学者中独特の学風を樹立し、該博精致を以って知られた矢野玄道遺著の主篇に属し、
広く典籍を渉猟記紀の補翼に擬し以って皇祖の遺訓を宣揚し、國體の淵源を闡明するに資せむとしたものである。
此書名は夙に斯学者の間に知られ、慶長以来諸方著述目録等以下のものにも登載せられているが、之を閲したるものは殆んどない。
是れ蓋し本書が未定稿に属するが故である。
玄道が此書を起稿したのは其青年時代であって、爾来数々稿を改め推敲を重ねて来たったが、維新忽忙の際、身を国事に委ね、
力をこれに専らにするを得ず、往々中絶し、僅かに晩年に至り、間を得て、これが完成を期したが、遂にその志を遂げるに至らずして逝いた。
かくて此書は門人木野戸勝隆すら久しく見ることを望んで許されず、命を受けて清書に従い、はじめて之を窺ふことを得たと自ら語っている。
本書は矢野玄道所蔵の清書本を原とし玄道手澤の数本と、之に国幣小社伊曾乃神社所蔵本を参照校訂し、
且つ其れに附したる箋註を採って挿入編纂せるものである。」

と記している。

<玄道の思想>

玄道の思想の原点を見る事は今日では困難であるが、そのよすがの一端に触れると思われる文面を一部抜粋する。

玄道曰
「此世は蓋し苦世にて楽を索むる地にあらず。
故にたとひ百年三萬六千五百日生りとも中に病気死苦などを数え出れば、楽しむ時としては僅かに数日を過ぎざるべし。
此の僅かなる時に道徳を修め永久の業を積得べき事なれば、豈飲食衣服家玉等の瑣事に心神を労働するに暇あるべしや。
故に上天は常に天上神界の楽地を遥かに想像して我が心を身外に脱出して天翔りつつ神遊びせむ事を求むべし。
しかし、神遊びを得たらむは世間の苦難艱難ちぢに来集ふといへども、心中に常に逍遥自適を得べきなり。
此の現世は人の本世に非ず。蓋仮世にして皇祖天神の人を此世に生ましめ賜ふは、其心を誠にし徳行の真仮を定め誠をとて
寓居せしめ賜へるにて、試終りて幽世に帰り入れば尊きは自ら尊く卑しきは自ら卑しく誰人も不幸にて心あかず、
いぶせみ居りし宿願も其の行徳の大小により始めて成就遂げて、其の情慾を心足らひに得しめ賜ふと聞こゆ。
凡て人の本世は現世ならで幽世にあり。従って事業も亦此の世に在らで後世に在れば也。」

これについては、平田篤胤の神道神学の中核に流れる思想に一脈通じると評する意見もある。

玄道の皇典研究は主に考証学であるが、これは若き頃師と仰いだ伴信友の影響である。
また幽冥思想にも傾倒しており、土佐の宮地堅磐が自記したものを借覧し筆写した『禁厭秘辞』や日本の仙人について玄道自身が蒐集した
『皇国神仙記』ほか、『幽冥紀文』・『魂神要論』などを筆写執筆している。
『本朝神仙記傳』の著者である宮地厳夫は、玄道の資料が神仙傳を書く契機の一つになったと語っている。

玄道翁は若き頃より国事に東奔西走し、寧日なき日々を送られた方でありますが、
玄道を師と慕う人々は後を絶たず全国津々浦々にいたと言われている。
玄道は入門の条件として誓詞を提出させておられたが、玄道流で、短冊に万葉仮名にて規定の詞文を書かせ裏面に年號月日、住所姓名、
年齢を記させ提出させる事を常とした。
以後門人師弟と認めた者達に対して『讀書は古事記・日本書紀の二典 神祇式及び五国史 令 律 式格 は更にて、さては古事記伝 
古史伝を始め 本居宣長 同平田篤胤の著述類を盡く備へられたし又つねに萬葉集を傍らに置きよく読め』と常々申されておられたと言う。

玄道莞爾と笑って曰く『世の宝は何ぞと申すに 神魂をよく養いて これを大切にする 即ち幽世の大富貴であります』

 

<古史傳続修執筆の頃>

玄道翁が其の著述中最も重きを置いた物は『神典翼』『皇典翼』の二冊の本であります。
これらの稿本は神典(古事記・日本書紀)の補翼となる古文献資料を普く蒐集して纏め上げようとされたもので、若き頃に着眼し以後執筆を志し、
晩年に至るまで数十年を費やし、こつこつと書き貯めておられたが、完成する事もなく逝去されてしまわれた。
俊英な門弟もおられたが、玄道逝き後は遺志を後継する者もなく未完に終ってしまった。
しかし翁が生前に精力的に集めた貴重な資料が、晩年になって師平田篤胤の未完に終ってしまった古史傳を続修する上で
大変補益になったと云う。
玄道翁は平田宗家の後継者鐵胤から古史傳28巻以降手つかずになっていた傳の続修依頼の書簡を受け取る前後に、
奇しくも平田先生の夢を三度見ておられる。
そしてその折に感じ入った事を歌に托して詠じておられる。いそしめと する業ならし かしこくも 夢路さやかに 君か来ませる。 
師から不思議な知らせを夢で受け取った玄道翁は、それから暫くして明治7年11月に平田宗家から続修依頼の書簡が届き、
時恰も翁は蟄居御免の後、郷里から上って京都に来ていた際であり、師の不思議な霊夢と相俟って快く承諾し、
以後7〜8年を費やして古史傳を完成させている。
これらの経緯を詳細に記した書簡類が現在も残されていると聞く。

 

<神典翼・皇典翼・古史傳續修について>

日本文化研究所の主旨としては、神典翼並びに,皇典翼は本所より刊行しつつある国民精神文化に関する文献資料の中
記紀研究資料の一つとして編纂するものである。

此の書は平田派国学者中独特の学風を樹立し、該博精緻を以て知られた矢野玄道遺著の主篇に属し、廣く典籍を渉猟、記紀に擬し
以て皇祖の遺訓を宣揚し、国体の淵源を闡明するに資せむとしたものである。
此の書名は夙に斯学者の間に知られ、慶長以来諸家著述目録等以下のものにも登載せられているが、之を閲覧したるものは殆んどない。
是れ蓋し本書が未定稿に属するが故である。

玄道が此書を起稿したのは其青年時代であって爾来数々稿を改め推敲を重ねて来ったが、維新怱の際、身を国事に委ね力をこれに専らに
するを得ず。

往々中絶し、僅かに晩年に至り、間を持ってこれが完成を期したが、遂にその志を遂げるに至らざるして逝いた。
かくて此書は門人木野戸勝隆すら久しく見ることを望んで許されず、命を受けて清書に従ひ、はじめて之を窺ふことを得たと語って居る。

本書は矢野家所蔵の國民精神文化研究所発行の『神典翼』第一巻解説文によれば、
宣長翁の古事記傳は、わが古典解釈の画期的進歩を将来せる不朽の大著である。

篤胤翁の古史傳はこれを更に進めて、聴き記紀以下の重要なる古典を比較し、精粗異同を補って成文をなしたものに基いてゐる。
これ亦國學の研究上没却すべからざる大事業であった。併し乍、古傳の正鴻を把握するには参照すべき記録傳承が無限にある。

玄道翁の事業は、その閲読にかゝる廣範なる文献資料によって、是等先學の學績を検討完璧を期するにあった。
神典翼は古事記本文に基き、書紀以下の文を吟味配当し、
諸家の説を纂述し、批判研究の資料を網羅するにつとめた。
木野戸勝隆の校註は一層これに充実を加へ神代史、
神祇史の豊富なる参考資料を具備した。皇典翼は、書紀本文に基く同様の編述で國史の研究資料である。

神典翼第一巻は一之巻より七之巻に至る。
即ち古事記上巻・天安河の宇氣比の條迄を収めてゐる清書本を原とし、玄道手澤の数本と、之に国幣小社伊曽乃神社所蔵本を参照校訂し、
且つ其れに附したる箋註を採って挿入編さんせるものである。

伊曽乃本は勝隆が其師玄道の遺著を大成せんと志し、これが校訂に其精根を傾け嘗て清書の際より譲興せられた其の舊稿によって
校訂箋註を施し、明治の末より数十年に亘り日夜これに鞅掌せる遺書で、その生を畢るまで、筆を捨てなかったものである。

玄道翁晩年掉尾の事業は、古史傳の續修で是は明治12年比から同19年の末に及んで居る。
しかも19年の2月には、宮内省の御用掛は罷めたので 、郷里に帰らうとしたのであるが同門の人々や、師家からして、
今翁に去られては古史傳は遂に完成を見ず了るから、是非にと懇請せられ、遂に姑く止まって其れに力を盡し10月予定だけのものは
完成したのであった。

抑々古史傳といふのは、皆人の知る如く平田先生の著であるが、始め先生古事記や日本書紀等の記事に、参差交錯する所が有るので、
是を正さうとして、古語拾遺や他の古典を参取して、別に古史成文といふ書を著はした。
それは神代から推古天皇に及ぶ筈であって、神代だけが大体出来て居た。
この古史成文に対して、本居先生の古事記傳に倣って、或いはもっと溯れば、孔子の春秋に対する三傳といふことになるが、
古史傳を著して第二十八巻までは出来て居た。然るに其れ以下は第二十九巻及び三十巻の一部が書きかけて
あるだけで、其後は全く無い。それで平田先生の嗣子である鐵胤主は、玄道翁に兼ねてからこれが續修完成の依頼をしたのであって、
今存している書簡によれば、明治7年11月が依頼して来られたのが最初で、時恰も翁は蟄居御免の後、
郷里から上がって京都に来て居た際である。此の書簡は右依頼の事のみで無く、古史傳の成り立ちの由来、
其の他に就いて参考になるべき点があるから、之を下に掲げて置く。
     
     『近来意外に御遠々敷打過申候。 先以此節寒之砌御安健被成御勧学之旨。恭賀之至奉存候。次ニ拙老事追老衰 殊一昨年来
      病気勝ニテ一入衰耗仕リ候ヘ共 此節平臥ト申スニモ無之候條 先々御休意可被下候。 然者近年御著編  志斐語ヲ始メ古文彙
      真木柱 玉鉾物語等 御上木ニ付 追々拝読近来倍々御精学之御事ト深ク感伏忝シク大慶至極ニ奉存候。』

 

<郷里帰省後の日々>

古史傳の続修を凡そ九年間の歳月を費やして完成させた玄道は、その後宮内省図書寮御用掛けの仕事に携わり皇室系譜などを編纂し、
調査の仕事も一段落した事もあり、予てから郷里に残した母堂(86歳)の安否の件も要因となり、これを機に大洲阿蔵の生家に戻る事を意に
決した。

玄道の郷里大洲は古来小京都と呼ばれ山紫水明の風光明媚な土地柄であり、晩秋の余生を母と共にのんびりと散策して過ごし、
生家土蔵内にしまわれた夥しい膨大な古書群の資料整理や自著の執筆に明け暮れ日々思索三昧の生活を夢見ておられた。
だが帰郷から一ヶ月後の12月15日母堂は老衰の為静かに長逝されてしまわれた。
玄道は介護の疲れや心労もあって以後は体調をくずされ持病も悪化して衰弱し、翌年五月十九日の夜九時に昇天したが、
亡くなる十日前後までは元気でありまして、身内の者や見舞いに来た弟子達に対して、
『寿命の長短は幽界の御掟による事であり、この世界は仮の世で、幽界(死後の世界)こそ我が本世であって、
霊魂は天地の間に永久に尽きる事はないのだから、私が亡くなっても、決して嘆き悲しむ事のないように』
と申されておられた。

この昇天の有様を土佐五台山神仙道本部斎主清水南岳翁は次のように語っておられる。
「矢野翁が其帰幽に臨み予め訃報を発して、親類知人を招宴し酒林を挙げて談笑しつつ、席上端座せるまま悠然として帰幽されたのは、
翁が土佐潮江天満宮の宮地水位先生に師事して神仙道を学び尸解(しか)法の修煉を成就していたからで、翁は其席尸解法によって解脱せられ
玄胎を以って仙境に遷られたので、矢野玄道翁は謂はば吾々水位門流道士にとりて先輩門人といふ事になる」と申しておられる。
玄道は若き頃に土佐潮江天満宮境内に於いて宮地父子と邂逅し以後水位先生から自著「訂正大學」「禁厭秘辞」「神仙霊符箋」「還丹保身編」
「霊胎凝結口傳」etc を借覧し又その折に古代の薬方が神代文字で書かれた巻物や神仙真形図類を授かっておられる。
よつて水位先生の「仙人下尸解法訣」なども閲覧され玄学研究の参考に資されたものと拝察される。

明治10年に出版された玄道の手になる魂神要論は道家玄学の秘密を記載した道書でもありますが、
資料の一部は水位先生から借覧されたものと思われる。

尸解(しか)とは玄家の法術の事で自らの意識で魂を肉体から脱出させて、神仙となって仙化したるを申す。
この法は太陰錬形の術とも称されている。
水位先生によると「夫れ尸解の道は常に尸解すべき術を学び得て霊魂を使ふ法を自由になし 死に至りて屍を解き 
彼の玄氣神の元化霊妙なる霊氣の中に胞胎するが如き霊胎を化作し其神霊と同体になりて天長地久と共に無窮を期し 
再び死する期とてはなく生き通しに亘るを目的となし屍を解きて霊胎を更に結ぶを神化の道とも云ひて道士は之を尊みたるなり」と
解釈されておられる。 

逝去される数日前には、玄道翁は寓居の病床の中で障子に次なる漢詩を詠じて遺されたとの事であります。
要約すると
『富貴何ぞ慕うに足らん。貧賤何ぞ悲しむに足らん。
惟神(かんながら)の道有り。真を期して長きを楽しむ。誰人の人生や短かからん。
我は天地と共に生まれたり。春秋名は代謝す。寵辱何ぞ驚くに足らん。
誰か五洲大なりと言う。大倉粟を知らず。方寸天地を容る 弘尚を包みてあまりあり』
と心境を吐露なされておりますが、自著「本教学柱」他の数多の著述の中に於いても、この理念を一貫して力説なされており、
荘思想とも一脈通じる玄道翁の内面的神仙理念の結晶であります。
更に数首の詩歌をも書きつけて溘焉として逝去なされたとの事である。

玄道翁胸襟を開かれ弟子たちに語りて曰く、
『現在の富貴も貧賎も窮困も辛苦も難苦とするに足らず、唯々幽府に坐す大神達の御心に叶ふ様に、行住坐臥共に逸居せず恐懼修省して、
假初にも穢き悪行をなさず、少しにても世のためになるべき善き事を考へ、実徳を修むべし。是正しき種を播きて正しき福を求むる道也。
其要は幽顕の差あるを知る事を主とす。

幽界は天神地祇の知看し、顕界は大君の知看すなるを、幽界は世に有ゆる諸物の成出て、又復帰る所にて、内殿たり。
故に本郷とも頭脳とも云ひつべく、顕界は皇大神の人民の戒として現在しの賜へる地なれば門戸たり。
故に行旅とも、四肢とも謂ひつべき理ながら、此の顕明(現世)にある程の徳行の得失に因て、我人の永遠に幽冥(死後の世界)に参りて後の
品位の定まる地なれば、豈に此を假世と容易く思ひ惑ふべきにあらず。

皆人此の世を退ては、其の形体こそ五元に帰り土に入って朽滅(ほろ)ふるなれ、魂神心性たる三魂のみは、形体と共に生きて、
元始(はじめ)は有れども終極(きわみ)なく、人身と倶に盡る期(とき)有る事なく、身に合ても生き、身を離放(さか)りても生存(ながら)へて、
必ず幽冥大神の神廷に詣奉りて其の御冥判を受けて、初めて畢生の功業罪過を、此の時に分明に定させ賜ひて褒貶位禄を賜へるなり。
此れ幽冥大神の御政にぞ有りける。かく世間の根源はすべて皆幽冥界にあり。幽世より顕世を洞視し賜ふ神祇の情状を深く弁え、
朝露の如き我が泡沫の人生を無駄に浪費致す事なかれ。
この天より享受したる短い命を夢疎かにする事なかれかし。

凡て現在の辛苦艱難は真(まこと)の心を開眼さす為の人道にして、其の快楽と見るも仮の快楽、艱難と見るも仮の艱難としも知らざるべし。
其は此の現世は人の本世には非ず。
蓋し仮の世にして、皇祖天神の人を此の世に生しめ賜ふは、其の心を試にし徳行の真位を定め試むとて寓居せしめ賜へるにて、
試畢りて幽世に帰り入れば、尊きは自ら尊く、卑きは自ら卑く、誰人も不幸にて心にあかず、いぶせみ居りし宿願も、
其生涯の徳行の大小に依りて、始めて成就遂げて願いを心足らひに得せしめ賜ふと聞こゆ。
現世は譬へば行く旅にて、幽世は真故郷の如し。
されば世に貴み恋ふ位禄ともに後世に益ある事更になし。
只己に得たる日々の善徳と誠のみそ真実と云ふべかりける。
凡て人の本世は現世ならで、幽世に在りて本業も亦此の世に在らで彼世に在ればなり』。  

*矢野玄道著本教学柱より一部抜粋す。
(この本のコピーは、縁あって当時愛媛県立図書館長であった故越智通敏先生から昔戴いた、
数種類の貴重な玄道先生著作本の中の一部でありまして、亡き先生のご厚志に深く敬意を表したく思います)

 

 

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