釣談議

(「古道」より)

昭和二十一年十月一日

清水宗竿

 

私の釣趣味は少年の頃からであるが、それがどうやら道楽化して來たのは、廿歳前後から
である。

その時分、私は二年ほど故郷に病を養ったことがあるが、その頃は釣技よりも、餌の研究に
興味を覚えていた。
動物図鑑を手にして、瀬の河底を探ったり、水際の砂利を掘り返したりして、川魚の餌の
所在や、其の発育状態などを調べて歩いた。

 

脚下を照顧せよ、餌追わぬ魚を喞(かこ)つ釣人が、焦燥の足を踏みしめている水際の石の下
には、豈(あに)計らんや、魚族どもが鵜の目魚の目で求めつつある渇仰の好餌が夥しく棲息
しているのだ。
未知の世界への驚異に、私は汲めども尽きぬ興趣をそそられていたのである。

 

ハヤの好む餌のうちで、石蠶(イサゴムシ)という水中の蟲がある。
爽やかな初秋の朝、川面をかすめて、或は高く、或は低く、薄絹の様な二葉の羽翅をスイスイ
と動かせて、自由の天地を楽しむかの如く飛翔している、あのトビケラの幼蟲である。

この幼蟲は主として、水底の岩石や水際の砂利の中に巣喰っているが、これはトビケラが
飛び交しつつ、水面から卵を産み込んだもので、水中に落とされた卵は、暫時水と共に
流されるが、やがてしがらみに掛り、河底に沈んで泥砂の中に埋もれる、そして孵化期が
訪れて、糸屑のような幼蟲になると、のこのこ泥砂から這出して來て、瀬の砂利石の裏などに
付着して、水中から微生物を摂取しつつ、どんどん成長して行く。

 

この幼蟲を採取して釣餌とし、瀬のフカシ釣りをするのであるが、ハヤ釣りには絶好の餌で、
この頃になると、一日一千尾以上という釣果が挙がるのは珍しくない。

 

幼蟲がこの成長期を過ぎて、或る発育状態に達すると、今度は自分の口から特殊の粘液を
吐いて、周囲の泥砂と混合して、円筒状の繭を形成し、其の裡に籠って蛹(さなぎ)と化して
仕舞う。

 

宛も蠶が糸を吐いて、繭ごもりの鎖国状態に入るのと相似ている。
そして、外界から完全に隔絶し、自ら求めて暗黒の世界に蟄伏する。
昨日までは、砂底を這い、水を渡って石から石への生活を樂んだが、それはもう遠い昔の
夢である。

 

自縄自縛の繭の世界――彼らは此の暗黒と、身動きだに許されぬ不自由な天地に閉塞する
こと約二旬、外界のせせらぎの音をよそに、自ら求めて閉じこもった暗黒の運命に安住する。

 

恐らく彼らは、又と再び、昔日の自由の天地を夢見ることだに為し得ないかもしれない。
いづくんぞ知らん、この二旬に亘(わた)る岩戸がくれの間に、この幼蟲は次第に蛹(さなぎ)と
化し、蛾と変じて、盛りあがる内在の力を凝結して、一大神変を成就し、昔日の如き水底方寸の
石から石へといった陋巷の世界とはまるで別乾坤の嘗(かつ)て夢想だに為し得なかった
水面上の新世界を飛翔すべき二羽の羽翅をさえ具備したトビケラとしての本体を完成するので
ある。

斯くて二旬に亘(わた)る神変時代を過ぐるや、彼等は宿命の殻を突破し、神異の脱胎に成功して
水底方寸の舊世界を尻目に、薄絹の様な五色の羽翅を、颯爽と青空一碧の天地に浮かべるので
ある。

 

そこで私は考えるのである。
ただ見る、何の奇もなきトビケラの過去にも、吾人の夢像だに及ばぬ幾段階かの神変の諸相が
あった。

好むと好まざるに拘らず、些々たる一昆虫の生態にさえ、造物主の意思は一点の狂いなく應現
されてゆく。
水面に産み込まれた生命の卵は、水中に流れ、楞にかかり、泥砂に埋もれ、垢石の裏に憩い、
果ては自縄自縛の暗黒の世界に沈吟する。

 

然し、一貫する生命の飛躍は、栄枯盛衰の仮相を超越して、やがて秋空を截る自由の天地を
約束している。

 

宇宙意識が画(えが)く皮肉の叙ヘ様か、造物主が意欲する必然の過程か、トビケラの瞳は
澄み切って、過去の神変の苦難など影さえ留めていない。

 

むかし荘周が蝶となった時、蝶は荘周であったという。
この昆虫の生態の裡に見出される宇宙造物主の意思を、私はほのかながら読みとれるような
気がするのである。

 

 

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