丹田鎮魂の説(二)

清水斎徳

 

平田大堅翁が、極めて通俗的に養生の法を述べた「志都之石屋(しずのいわや)」の一説を引用したいと思う。
この「志都之石屋(しずのいわや)」は、翁がつとめて脱白に俗談平語を以て大衆に呼びかけるといった態度で
執筆されたものであるから、其の含みで読まないと、軽率に翁を批判するような結果となっては、博学洽聞、
海内に比なしと謂われた、翁の眞骨頂と相去る千万里である。

 

「臍の下に気海と云う名をつけた穴処のあるのも、実は人の口鼻より受くる処の気をしっかりと臍の下、
謂わゆる気海の穴あたりに湛(たた)えてあるように、と云う義(こころ)で名づけたものでござる。

素人もよく知っている難經と云う医書にも、生気之源者、腎間之動気也。
此三焦之原、一名守邪之神。」
とありますが、此義は人の生きておる気の原(もと)と云うは、臍下の動気のある処が夫(それ)じゃ。

此れをなぜ腎間の動気と云うぞとなれば、嚮(さき)にも申するとおり、腎の臓は左右に二つ有って、丁ど気海の穴は、
其の左右の腎臓の中間に当っておるに依って、腎間之動気と云うたものでござる。

此の三焦之原と云うは、上焦中焦下焦と三焦の中にも(筆者曰、三焦は六腑の一にして、上焦は心臓の下、胃の上口に、
中焦は胃の中に、下焦は膀胱の上口にありという)この下焦腎間の動気のある処は、大切の処ゆえ、三焦之原と
云うたもの。

一命守邪之神と云うたは、ここの処さえ気が充ちておれば、外邪にも犯されず、内より病が発(おこ)らぬ程の訳ゆえ、
邪を守るの神とも云うとの意味でござる。

されば、素問の評熱病論に、邪之所湊(あつまる)其気必ず虚とある如く……迷わし神に憑かれるも、狐狸の類に
化かされるも、彼の守邪之神なき隙を付込まれたる故のことでござる。

然れば、これ程やんごとなき大事の処ゆえ、医書と云う医書は本よりのこと、諸道諸業何れもここへ気をたたみ蓄える
ことをさとしまづ、天竺では釈迦よりも遥か前より学び來ったる婆羅門の修行も、治心(ぢしん)と云うて、心をここに
治むるの修行、また釈迦の修したるところも、此れに外ならず。

されば諸宗の安心も、云いもて行けば、みな同じ心に帰する事でござる、又、諸越(もろこし)の神仙の道を伝えたと云う
道家の修行する処もこれで、皆ここに気が聚(あつま)れば無病になり、無病じゃに依って長寿を保つと云う義で、此の
修行を不老不死の術などとも云うたものでム(ござる)。

気海の下の穴の処を丹田と云うも、其の不老不死の丹薬を蓄えたる田と云うの義(こころ)を以て名づけた物じゃと見えるで
ござる。

さて、臍下へ気を練り、畳(たた)むの修法は種々ある中に、いっち手みぢかい修法がある。
其れはわが父は、八十余(やそま)り四つの歳まで寿を保たれましたが、我は若かりし時、殊の外、大病なりしが、
とある老人の此法を習って、三十余りの時より折節となく此術を行(や)って、此齢に至るまで無病なり。

其方もこれに習えとで教えられましたが、実以てこれは無病長寿の奇術なること、疑いなきことでござる。

其の仕ようは、毎夜寝所に入って、其のいまだ眠りにつかぬ前に、仰向いて、両脚を揃えて強く踏みのばし、総身の元気を
臍の辺りから気海丹田の穴および、腰脚 足心(あしのうら)までに充(みた)しめ、さて他の妄想をさらりと止めて、指を折り
息を計えること百息にして、其の踏みしめたる力を緩め、暫く有って又かくの如く、大抵毎夜この術を行うこと四五度程づつ
缺(か)かさず修すること毎月五七日づつすれば、元気惣身に充(み)ちて、腹中の癪塊も此術に越すものなし。

夫故(それゆえ)に、我は老に及ぶまで、かくの如く無病なりとて腹を出して見せられたる処が、中焦鳩尾(みぞおち)の
処すきて、下焦臍下の張りて固きこと、こつこつと音のするようで有ったでござる」

 

ただ、翁の此の実修方式については、人各々体質や健康の相違があり、一律にこれを採って金科玉条とすることはどうかと
考える。

そこで参考までに、曩(さき)の実修方式に注釈を加えるといった意味で、佚斎樗山(いっさいちょざん)(享保の頃の学者で
武術にも長じていた)の「収気の術」によって補説してみたいと思う。

 

 

「先づ仰のけに寝て、肩を崩し、胸と肩とを左右へ開き、手足を心のままに伸べ、手を臍の辺り虚欠の所に置き、
悠々として萬慮を忘れ、とやかく心を用いることなく、気の滞りを解き、気を引き下げ、指の先までも気の往(ゆき)わたる
ように、気を総身に充たしめ、禅家の数息観の如く、呼吸の息を数え居るに、初の内は呼吸あらきものあり。

漸くに呼吸平かになる時、気を活(い)かして天地に充つるが如くすべし。
息をつめ気を張るには非らず、気を内に充たしめて活(いか)すなり。
此時に積聚の病ある者は、胸腹の間、其の病のある所、必ずしだるく気味あしきものなり。
これ即ち、あつまり凝りたる気の融和せんとして動ずるなり。

腹のうち鳴るものあり。
此時、多くは腹の内の気味あしきに驚きて止むものなり。
此時は、猶お初めて開きて充ちたる気を改めず、掌を以て柔らかに抑ゆべし。
強くひねる時は彼の動ずる邪気にさからい、却って鎮まらざるものなり。
甚(はなは)だ突き上ぐる時は、格別なり。

惣(そう)じて腹の上、一処に久しく手を置く時は、気其処へあつまるものなり。
故に、実したる所に手を置かずして虚なる所に手を置くことに習いたり。

亦、脊病ある者は、必ず背中しだるくなるものなり。
只だ気の凝らざるようにすべし。
胸と肩とを開くこと習いなり。
両の肩をぬき出すように開く時は、気伸ぶるものなり。

これ、形を以て気を開くの術なり。
気滞る時は、心滞る。
心滞る時は、気滞る。
心気は一体なり、此の術は、まづ気の滞りを解きて、倚(よ)る所を平かにするの術なり。

心気もと一体なり。
気は形の間を運って心の用をなす。
心は霊なり。形なくして此気に主たるものなり。
気を修するときは、心おのづから安し。

気収りたらば、気を活すべし。
惰気にひかるべからず外惣(そと)身にみつるが如くわづかに心を活(いか)すれば、気活(きかつ)するものなり。
又 昼は起きて形を正うし、気を活して総身にみたしめ しばらくの内、坐して気を収むべし。

必ずしも、線香を立て 時を定め結跏趺坐するにも及ばず。
常の如く坐して、形を正しくし、気を活するのみ。

暫くの内、かくの如くして、一日に幾度も間暇の時に修すべし。
かくの如くすれば、筋骨束ね合い、血脉流行して滞りなく、気実(じ)っして病自ら生ぜず、形正しからざれば、
気倚る所あり。

立ちて修するも同じ。
人と向い坐し、或は物に対し、又は事を務むる時も同じ。
胸と肩とを開きて、気のかたよることなく滞ることなく、総身指の先までも、気の充ちわたるように心掛くべし。
歌謡して声を発する時も、飯を喫し茶を飲む時も、路を歩く時も、常にかくの如く気をつける時は、後は不断のことになりて、
自然に気活するものなり。

不断かくの如くなる時は、不意の変に応ずること速やかなり。
惰する時は死気となりて、用に応ずること遅きものなり。
落つたきとると油断とは以て異なるものなり。

みづから試みて知るべし。」

 

首尾一貫、貴重なる体験の言葉で、随所に達人の達言が神韻を漂わせているのを感じる。
霊がどうの、神秘が斯うのと称して阿呆のような顔をして光陰空しくわたっている漫然居士をして、端的に臍下虚脱の
愚を衝き、思い半ばに過ぐるものをあらしめている。

気を活して惣身に充たしめ、一毛と雖(いえど)も欠如あらしめずという樗山は、同時に気の滞りを解いて心を平安にし、
悠々として萬慮を忘れよと訓(おし)えて動静一如の妙所を伝えんとしている。

この動静一如の力点こそ、気海丹田の地で、静坐して自ら楽しみありと謂う法悦の源泉である。
この心気一体、動静一如の妙境を自得すれば、終日坐して終日の楽しみを得るのみならず、気活の境を熟練して
所謂(いわゆる)丹竈功成る底の時節を自覚するに至るのである。

蓋(けだ)し、中心なき「行」ほど無意味なものはない。
安閑無事として千萬年を坐して、何の所得を求めようというのであらうか。
曰(いわ)く静坐と称し、鎮魂と云ひ、或は胎息と呼び、煉丹を修するものと称して、只管打坐して成果を何れの日に
結ばうといふのであらうか。

心霊独立の活機を現ぜざる「行」は、中心なき「行」であって、放心の行である。

すなわち空虚に入り、寂滅に流れ、所謂(いわゆ)る毫厘を差(へだ)てて千里を謬(あや)まるものである。
中心なき「行」は懈怠の行である。
懈怠放心の行るが故に、心霊独立の活機に見参し得ないのである。
形は相似たりと雖(いえど)も、心法に於(お)いて、天地と懸隔するからである。

古人のいふ如く、句々同じく事々合ふ、然れども同じからずである。

樗山は、わづかに心を活(いか)すれば気活(きかつ)す、気を活して心の自在を為すべしと訓へた。

気海丹田の眞気に霊火が点ぜらるれば、五内中間天地八紘、為に昭々として明るい。

不滅の法灯は身外にあらず、気海丹田の裡に灯されている。
只だ心眼を明らかにして、はじめて此の霊光を目睹(もくと)し得る。
克くこの不滅の法灯を守り得て、光明身内を照徹し、遂に日月と光を争うに至らねば、萬物の霊長たる人間の尊貴なる
所以は判らない。

カントであったかと思われるが、一詩人がよく宇宙の眞理を謳(うた)へるを見て驚嘆したが、後彼も遂に言語の徒に
過ぎざりしを発見して、愁嘆(しゅうたん)久しうしたと伝えられる。
所謂(いわゆる)句々同じく事々合ふ、然れども同じからずである。

(続く)

 

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