「古道」松籟譜(二)

昭和二十一年三月一日

清水斎徳

 

客甲 「石城山に吹く松風の『おとたま』に、私もかねてからしみじみと浸って
    みたいと思っていましたが、本当に今日は心ゆくまで修法させて頂き
    ました。
    下山の途中、ふと考えついたことですが、樹下石上の修法も亦(また)
    妙ですが、山中に神さびた四阿(あづまや)でも拵(こしら)えて、
    月明の夜の松濤などを聴いたらと思いました。」

 

客丙 「それは、詩になりましょう。」

 

客乙 「詩よりも、絵にすると面白いと思います。」

 

客甲 「山は蓬莱に似、人は仙に似たりというところですな。」

 

客丙 「音霊法で登仙したという――何とかという支那の仙人がありましたね。」

 

主人 「陶弘景でしょう。
     庭院に松を植え、松籟を友としていました。」

 

客丙 「松籟の『おとたま』に入って、何か特殊の工夫をやっていたのでしょうか。」

 

主人 「恐らくそうではありますまい。ただ松風の響きを聴いて、楽しんでいただけでしょう。」

 

客丙 「いや、私の伺っているのは、音『たま』によって悟境を開いた結果――仙果を
   得られたのではないかという意味です。」

 

主人 「音『たま』に入って特殊の工夫をするとか、音霊法によって悟境を得る
    とかいうような概念そのものが妥当ではないのです。
    つまり、音霊法の修法について、そういった観念をもつことが不可
    (いけ)ないのです。」

 

客丙 「それは要するに、主観の相違ではありませんか。」

 

主人 「音霊法では、其の主観そのものが問題にならないのですから、主観の
    相違を来すということもないのです。」

 

客丙 「私の言わんと欲するところが、どうもぴったりと通じないようです。」

 

主人 「禪の或る派では、古来『音を聴く主は何ものか』と究明せんことを工夫
    させて居るが、これと音『たま』の法とは異なるのです。」

 

客丙 「音を聴く主の究明――とは畢竟、怎ういうことですか。」

 

主人 「つまり、心源を是破せんとするのです。
    『おとたま』では、一切そんな工夫をせず、只だ音を聴きさえすれば
    よいので、これは非常に大事な事ですから、ハッキリ認識しておかな
    ければなりません。
    古人も毫厘も差あれば、天地懸隔すと云いましたが、此れは些々たる
    ことのようで、実は極めて重大な『おとたま』の極意で、一切の
    解決点であるのです。」

 

客甲 「陶弘景が、松籟を友とし、求むるところなくして仙果を得たというのは面白い
      ですな。」

 

主人 「求むるところなきが故に、けい礙なしでしょう。
    道骨の豊かなものは、求めずにして得、馬骨の類は、小細工を弄して却って
    七離八裂します。
    手をつけようとするから、手がつけられなくなるのです。」

 

客丙 「塵埃の外に超然として、所謂(いわゆる)天地右形の外に通ずる底の心構えを執れば
    いいのですか。」

 

主人 「塵埃の天地のと『音を聴く主』が働くから、何時までも夜が明けぬのです。
    一切の工夫を放下して、只だ音を聴きさえすればよいので、何でもないことです。
    その何でもないことを、六ツかしく、いぢくり返すところに、一切の苦厄が起こるのです。
    雑念も妄想も、よし其のままに、只だ其のままに音を聴けばよいのです。」

 

客甲 「私は音霊法の、非常に簡易で、而(しか)も効験の的確な点に、多大の普遍性を
    感じています。
    眞なるものは滅びずと申しますが、逆説的に、眞なるものは必ず普及されてゆくと
    信じます。
    音霊法は将来必ず、有識の士の注目するところとなって、世界的に弘通されねば
    ならぬ運命を荷(にな)っているという予感を持っています。」

 

主人 「易でも、簡にして得、易(い)にして行わると謂(い)っていますが、一切の工夫を
    放下して、只だ音を聴きさえすればよいという、此の至易至簡なところが『おとたま』
    修行上の極意であり、音霊法が階層の如何(いかん)を問わぬ普遍性と、広く
    世界的に弘通性を持つ所以(ゆえん)でしょう。」

 

客乙 「絶対安静を要するような病人にも、『おとたま』が一番いいことを、私は体験的に
    信じています。
    複雑な手順の説明を要したり、体力や気力を要するものは、病人なぞ不向きですが、
    仰臥(ぎょうが)のままでも、どんな重患者にでも、少しの弊害もなく行うことが出来る
    という点が、有難いと思います。
    こんな簡易な平凡な修法で、甚深な霊験があるのですから、眞理は平凡のうちにあった
    という感に打たれます。」

 

客甲 「何事によらず、平凡に看過しているところに、案外妙味があるものですよ。」

 

客乙 「私は最初の頃、或る人から、『おとたま』は背中で聴くようにならねば、一人前では
    ないと聞かされ、随分苦労しましたよ。」

 

――主客ともに哄笑――

 

主人 「耳は音を聴くように、音は耳から聴えるように出来ているのです。
    修法上の色んな主観や、個人的な癖をまことしやかに、他人に強要しては
    ならぬと思います。
    ただ其のままに、聞えるがままに音を聴くだけで、何の工夫も要せざる
    ものです。
    長い修行の旅のうちには、色んな現象に接するものですが、それはまた
    別個の問題です。
    それは、今朝ほども語り合ったように、『おとたま』を哲学したり文芸
    することで、要するに『旅の見聞』です。
    『旅の見聞』と、『法の本質』を混同することは、相互に警戒しなければ
    なりません。」

 

客丙 「また愚問になるかもしれませんが、臍下丹田で聴くというような工夫も
    いけませんか。」

 

主人 「一切の工夫を要せざるもので、只だ音を聴きさえすればよいのですから、
    これこそ正眞正銘の安楽の法門というやつでしょう。
    尤も、坐法や姿勢を正してゆく上に、漸次不自然さを矯正してゆこうと
    いう工夫は当然のことですが、それを直ちに『臍下丹田で聴く』という
    風な語法で表現することは、誤謬を生じ易いと思います。
    どっしりと板についた坐法と、臍下丹田との関係は、古人も今人も力説
    これ努めて居りますが、それを嗤(わら)う者は、嗤(わら)う者の
    妄です。
    兎に角、正しい結果を生んで畏れることは間違いのない事で、正神界でも
    姿勢の悪い神々は、恐らく一柱も坐すまいと思われます。
    姿勢と内観の世界との関係は、心身相関の理くらいでは説明のつかぬ
    微妙な問題で、これは非常に重大なことです。」

 

客乙 「私は仏像や仏画を観ることに、一つの趣味を感じているのですが、特に
    其の容相に心惹かるるものを見出します。」

 

主人 「与謝野晶子の歌でしたか、大仏さまは美男でおわすという詠嘆があり
    ましたが、これは夫君の鉄幹氏にも別に問題にはならないでしょう。
    私も、出来のよい観音さまなぞを見るにつけ、美人でおわすなァと思う
    ことがあります。
    往年浪速(なにわ)の某所で陳列されていた観音像は、まことに一点の
    非の打ちどころない神品でしたが、惜しいかな、少し都合があって断念
    しましたが、全く紺屋の職人が、地団駄踏んでいるような思いでした。」

 

客丙 「音霊法は要するに、鎮魂法の別名に過ぎぬという説がありますが、如何
    でしょう。」

 

主人 「簡易にして神妙なる鎮魂法の一法であるということは出来ましょう。
    『おとたま』に入っているときは、事実誰しも深浅の差こそあれ、
    鎮魂状態に入っているのですから。
    然しそれは、鎮魂という側に立って、音霊法の側面を眺めての話です。
    それを以て直ちに音霊法を鎮魂法の別名に過ぎぬという風に論決するのは
    乱暴極まる、無秩序な論法です。
    音霊法(おんれいほう)は別名を『おとたま』の法と称し、また単に
    『おとたま』とも申しますが、あくまで音霊に格合することを目的と
    するものです。
    また、鎮魂の法の如きは、萬法の大宗と云うべきですが、其の方式は
    決して一方式に限ったわけでなく、系統的に見ても、色々異なった神伝の
    ものがあり、或は古来の傑出せる霊感者によって種々の流派が伝られて
    いるし、また仙道風道骨の士は、みづから気性に合った方法を案出して
    日用している位いで、音を聴くという一途あって二なき単一の方式を
    恪守し、音霊に格合することを目的とする『おとたま』の法とは、自ら
    異なるのであります。」

 

 

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