「古道」松籟譜(一)

昭和二十一年二月一日

清水斎徳

 

客甲 「伊勢の祀官をして居られた篠田さんの体験ですが、或る年の秋の夜、同邸の離れ座敷で音霊法を
    修して居られた時、霊音とでも申しますか、譬(たと)えようもない音響的なショックを受けたとたん、
    いつの間にか御自分が、敷間を距(へだ)てた茶の間に座っていたというんです。
    そこの茶の間では、夫人や御子息たちが、まだ寝もやらずに秋の夜長を歓談して居られたのですが、
    一向に氏の姿に気づかないらしので、氏は、或はこれは自分の妄想の所産ではないか、幻覚の如き
    ではないかと思って、自分の腿を抓(つね)ってみたり、体を動かせてみたり試みられたが、痛みを
    感じることも、周囲の見聞も一向に普通の状態と変わらなかったと云われていました。」

 

客乙 「それから、どうせられたのですか。」

 

客甲 「暫(しばら)く夫人や御子息の話を聞いたり、周囲を眺め廻して居られたそうですが、また最初の様な
    ショックを感じられたとたん。矢張り以前(もと)の離れた座敷で音霊法を修している御自分に
    帰られたが、アトでその時の話の内容や、周囲の状況などを御家族と話合ってみられたが、寸分
    違わなかったそうでした。」

 

客乙 「この場合など、脱魂現象というわけのものでしょうか。」

 

主人 「首顎厳経や達磨禪経などを担ぎ出す流派から見れば、所謂(いわゆ)る色薀微弱の境に於ける
    自心事業の影事として一蹴し去られましょうが、何でも彼でも神秘的な現象とさえいえば、すべて
    妄想の所産修道の魔事として断じ去らろうとする態度は、却って危険ではないでしょうか。
    然し、此の種の、所謂(いわゆ)る脱魂現象が、いつも純粋に手際よく行われ得るかどうかと云う
    ことは、尚お研究の余地がありましょう。
    「おとたま」の妙境に入って、座存立亡といった神機に触れることは、深浅の差こそあれ、誰人ともに
    若干の体験は持合わせていられる筈です。」

 

客乙 「其の境地まで行かないのは、要するに修行が未熟なからでしょうか。」

 

主人 「そんなことはありません。
    それは其の人其の人の謂(い)わば霊的素質と、其の場合の特殊な条件にもよることで、奇蹟的な
    神秘的な現象と、音霊法とを常に結びつけて行うとかいう、態度そのものが第一無理なのです。
    音霊法は、あくまで音霊との格合による、霊魂の浄めを土台とする直霊開顕の法で、元来からして
    『奇蹟を超越せるもの』です。」

 

客甲 「私はそうした神秘現象に逢ったことはありませんが、音霊法を修して居りますと、何ともいえぬ
    歓喜に充ちた、ほのぼのとした明るい安らかな気持ちになって、天地の間、ただ音霊と倶にあると
    いった感じです。」

 

客丙 「私は最近天行居を知ったばかりで、まだ音霊法を始めてから日も浅いのですが、どうも修法中
    雑念が去来して、苦労します。」

 

主人 「雑念妄想結構ではありませんか。
    友清先生も、『雑念も妄想もよしそのままに、ただ音を聴け音を聴け』とお示しになって居られますが
    雑念妄想あるがままにして、偉大なる効験を示すところに、音霊法獨自の面目があり、少し手に入って
    『おとたま』の妙味に感じて来ると、第一雑念だの妄想だの手間のかかる技巧を出没させること
    自体が、億劫(おっくう)になって来るものです。
    風、疎竹に来る、風過ぎて竹声を留めず。
    雁、寒潭を度(わた)る、雁去りて、潭影を留めず。
    風来らば風、雁来れば雁、何事もただうつるが儘(まま)にまかせて、彼の滋味津々たる音霊の妙韻
    に聴き入っていると、カラリとして青空一碧、別天地を打成した境地に入るものです。」

 

客丙 「そう伺ってみますと、雑念排除そのものが重点ではなくて、音を聴くこと、音霊に格合すること自体が
    修法の眼目であり、実修上主力を注ぐべき要点なのですね。」

 

主人 「風の來處、雁の去處といつまでも詮索を繰り返してみても、大人気ない話しじゃありませんか。
    気まぐれな雁の行方にも似た雑念妄想の去來を逐(お)うて、光陰空しく千萬年を打坐するなんて、
    如何にも本意ない次第ではありませんか。
    尠(す)くなくとも道に生きとするものが修法に志すとからには、正に生命をかけた気魄があるべき
    です。

    一心をかっちりと定れば、自らなる身構えと心構えが生ずべき筈です。
    物理学の方でも、二物が同時に同一の空間を占めることは出来ないなど申しますが、これは
    音霊法の修行の上にも云えることで、一心に音を聴きながら、同時に様々な思念を逞しくするような
    芸当は、本来不可能な筈です。
    極めて云えば、心構えが本物でないからです。
    心の方向をかっちりと一つに定めていないからです。
    矢を番(つが)えて的を見ずに、徒(いたずら)に風声鶴唳におびえているからです。
    古人も、心ここに在らざれば、視れども視えず、聴けども聴えずと云って居ります。」

 

客甲 「私が旺(さか)んに音霊法をやっていた頃は、時計の音だけでなしに、小川の淙々たる音や、山中に
    入って、瀧の音や松風の響、また海邊の波の音などをよく聞きに出かけたものですが、斯うした
    山水自然の風韻(ふういん)の裡に、みなそれぞれの趣きと味わいがあり、一寸言葉が妥当ではない
    かもしれませんが、例えば風の音と水の音とでは、音自体のもつ神韻とでも云ったものが全然異なり、
    その音の、ま一つ奥の方を流れている宇宙大生命の響きとでも云ったものが、貧しい自分の魂の糧
    となって呉れるように感じられました。」

 

客乙 「私は昨秋、一人でお山に登拝し、第一休憩所のあたりの巌上で、十分間程松籟の音たまに入り
    ましたが、神山をわたる松風の、幽邃(ゆうすい)とでも申しますか、遠くに吹く奥行きも判らないと
    いった余韻を聞いているうちに、ただ無性に懐かしい思いで、胸がうるんで來るのです。
    その時、胸底を流れた神韻とでも云った感懐は、到底言葉では表せません。

    例えば、お前が千年も萬年もかかって、生きかわり生れかわりして、あてどもなく探し求めていた
    霊魂(たましい)の故郷(ふるさと)は、実にここであったのだぞと、言葉でない言葉、声でない声、
    それも極めて強い、はっきりした感じで、細胞の一つひとつにまで浸み透るほどに、胸も温もる感じで
    知らされました。

    それは誰からも、父母からも受けたことさえない、温い呼びかけの感じでした。
    『神愛』ということを、文字の上で、理念的に考えていた自分は、愕然としました。
    この時に聞いた温い深い松籟(しょうらい)の響を、私は帰国後も始終聴くのです。
    そのたびに霊山の神韻が、現実に私の心耳に通っていることを想い出して、お山への懐かしさが
    胸底を温める様に蘇って來ます。
    音楽が様々な感情を伝えることは事実ですが、山水自然の『おとたま』のうちに、私は深い雄大な
    感情のうねりを感じて、身ぶるいする様なことがあります。」

 

主人 「尊い御体験です。
    大千世界を掩い玉う神の大愛の迸(ほとばし)りを、音霊の表徴のうちに汲みとることは、吾々の
    宗教のもつ、特異の芸術でしょう。
    吾々には深い内在の世界を探求すべく、一路『おとたま』の文化を究明しなければなりません。
    久遠の過去から、永劫の未來へかけて、宇宙大生命と倶(とも)に流れている音霊の神秘を、究尽
    せねばなりません。

    地津魂(クニツタマ)の耳の文化から、天津魂(アマツタマ)の耳の文化へと躍進せねばなりません。」

 

客甲 「先程申し上げた、『天地の間の音霊と倶にある』という境地ですが、あの何とも云えぬ明るい平安な
    歓喜の境地は、正(まさ)しく一切順逆の境を超越して、神の心に帰った様な気がします。」

 

主人 「日々新たに、また日新たに、より眞なるもの、より美なる世界へ向上いて行くことが神習う所以で
    あります。
    例え一日のうち十分間でも二十分間でも、明るい平安な神習う境地に住することは、そのままにして
    神と倶(とも)にあることで、聖胎長養の所以(ゆえん)でもあります。
    心源を清澄し、心耳を明かにして音魂に格合するとき、心身一切の積滞は消散し、自らにして、
    我神に格(いた)り、神我れに格(いた)る神人不二の妙境が現前されねばなりません。

    換言すれば、『音霊』への格合は、神の大愛の懐へ抱かれに行くことです。
    嬰児の寝息よりも安らかな息使いを、吾々は音霊の修行から感ずることが出来ますが、一切の
    苦厄を度した平安な呼吸は、直ちに次元を超えた深い内在の世界に通うものです。

    孔子さんは、朋(とも)あり遠方より來る、亦楽しからずやと云われましたが、道を同じくするものが、
    斯(こ)うして体験を語り合うということは、亦何にも代え難い楽しさです。
    そろそろ山道の霜も融けそめた頃です。
    お山の松籟の響きを聴きながら、登拝する事に致しましょう。」

 

 

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