清水 宗徳

(しみず しゅうとく)明治43年(1910年)4月28日 - 昭和63年(1988年)12月3日)は神仙道本部第四代斎主、玄学研究家。
香川県生まれ。
本名 清水清一(しみず せいいち)。
齋徳とも称す。道号は南岳、東方道人。

青年時代一度見たり聞いたりした事は何事も忘れず、詩歌や漢詩などを諳んじ、勉学も秀でていたので神童と呼ばれたという。
元総理大臣の大平正芳とは旧制高松高等商業学校時代の親友の一人であったともいわれる。
宗徳はまた青年期には哲学的思索にふけり、死後の世界や中国の仙人にも興味を抱いていた。

霊学道場を主宰する松本道別(ちわき)の存在を知り入門した。
道別は霊能者として名を馳せており、当時の知識人との交流はひろかった。
その後、大阪の産業経済新聞社に入社したが、この時期に富子と出会い結婚する。
戦時中は軍の特務機関に所属し間諜として中国大陸に渡ったという。
この頃支那学の大家で文学者でもある後藤朝太郎と邂逅し夜を徹して語り明かしたりしている。

宗徳の漢学的素養は天性のものがあったとされ、特に道蔵には造詣が深く、中国滞在中に精力的に大陸の霊符や道書を蒐集していたが、身体を痛めて(宗徳自身は、中国人に毒を盛られたと語っている)間も無く日本に戻る。
腎臓を傷めたこともあり、富子との間に子は授からなかった。

帰国後、故郷の寓居に暫く蟄居していたが、知人の取り計らいにより山口県の神道天行居に入信し、本部職員となり教団の機関誌の編集を担当する事になる。
宗徳はすでにこの頃には平田学派の本は大半読破自家薬籠中の物としており、又水位玄学の真髄を体得していたという。
終戦直後のある時期、天行居の教義に於いて先達の一人とみなされていた高知県の潮江天満宮神官・宮地水位の資料を実地調査するために現地に赴く。
当時、天満宮の別宅には水位の住居がそのままの状態で残っており、天行居内部の派閥争いや教義内容に疑問を抱いていた宗徳は、この場所を買い取り、ここを拠点として新たに水位の教義のみを広めることを決意したが、経済的な面で断念せざるを得なかった。
その後、神奈川県の寒川神社宮司が宮地厳夫の長男威夫である事を知るに至り訪問、邂逅後に意気投合し、一緒に高知に出向し神仙道を旗揚げする事を約束する。
意を決した宗徳は天行居を離脱後、昭和23年高知五台山の中腹に居を構え神仙道本部を設立し、宮地神仙道第四代を称す。
以後昭和63年12月3日に逝去するまで宮地水位の顕彰に力を尽くしたが後継者をつくる事もなく一代で門を閉じた。
去年78歳。

神奈川から帰った宗徳は田布施の神道天行居を辞し一旦郷里の香川県三豊郡上高野に戻る。
昭和24・25年頃 - 29年にかけて寒川の威夫は宗徳と書簡のやりとりを頻繁にしており、又この間には何度か高知五台山神仙道本部を来訪し、暫く逗留している。
昭和26年寒川神社宮司職を辞す。
逝去される前年昭和29年夏は約一ヶ月に亘って本部に起居され威夫の御様子からして翌年には高知に帰着されるものとばかり宗徳は思っていた。
何故ならば威夫は神仙道本部の要ともなる水位傳来の神法秘事類資料を、本部にすでに郵送されており、威夫の帰省が実現すれば神仙道の存在を普く発現出来ると信奉していたが高知に戻る事もなく翌年昭和30年4月27日早晨に神変した。
宗徳は落胆したが、威夫の墓碑に額ずき、亡き威夫の遺志を継ぎ神仙道普及に命をかける事を誓ったという。

神仙道本部を創立するにあたり、寒川の寓居に於いて威夫と宗徳は綿密に様々な取り決めごとをしていたという。
道統の事や水位遺稿遺著の整理や神法道術伝授に関する取り決め、また入門者が1,000人に達した時点で本部を閉じるように誓約を交わしていたといわれ、宗徳はこの折に威夫から私人としてではなく公人として一子相伝の口授を授かったという。
逝去数ヶ月前に門人はすでに1,000人に達したと云われている。

宗徳逝去後は夫人の富子が会を継続したが翌年10月に逝去した。
晩年奥様存命中に信頼する側近の者に
「主人が継承した道統に関することは、誰一人として伝えておりません。
又道士の方々のどなたにも世話を受けておりません。
この神仙道本部は主人と私の二人で力を合わせて水位先生をお守りして来たのです」
と、涙ながら語っておられる。

二人の奥津城(墓)は五台山三ッ石に存在した神仙道本部近隣の山中に現在もひっそりと佇立しているという。


<清水翁求道語録>

神仙道本部主催者でもある清水南岳翁は常々門弟達に次なる言葉を申されておられた。
我が神仙道は神仙文学を愛好する幻想的夢想の道ではなく、あくまで実践道であると。
支那伝来の神仙道は大国主神の系統に属しているが当方の神仙道は小童大君少彦名神の系列に属す正真正銘の道であると。
そして先天の氣 後天の氣 之を得るものは常に酔へるが如しと。
亦道士たるもの、道ある処を歩むな、道のない処に足跡を残せとも申しておられた。
古来より道に志す輩は群盲の如く多いが眞を体得する者に至っては常に少なく孤高であると。
ただ共通して云える事は本物は皆それぞれに気品を兼ね備えておられると。
よって眞の求道士に人品の賤しい卑賤な輩は一人も存在せずと申しておられた。

神仙道本部に於ける求道の指針とは、
『古来より入門を許可されし道士は、師に見ゆるに貞信を以って貫き、あらゆる困憊と危逼に屈せず、道を信じて二心なき者が漸く許されて道要の伝言を聞くを得たのである。
弟子の中の小賢しき者達は、朝に幾許の法を修して夕には雲霧に乗ぜんことを欲し、自らの行力未熟を棚にあげて却って師を怨み、道を疑い師の志に反旗を翻し邪説に走りて幽真の素志を挫くのが学道の徒の通弊である。
貞信を以って神祇師仙を感動せしめ能く蛍雪の功を成就するの道士に至りては萬人中に一人のみと抱朴子は結論している。
さるが故に求道者は及ばざるも尚ほ孜々として倦まざるを要する。
真に仙種仙縁(司命仙宿)を以って出たるものは、神仙の道を好慕し、また必ず其の道を成就する也』
と云われている。

清水翁弟子に語りて曰く 大切な事は 一切の形骸に囚われることなく 目に見えぬ碧霞の中にこそ 存在があると知れ 莞爾と笑って申された。
道要の伝言にせよ、神法道術の授受にせよ、正しき道統上の認証なくして何処に『伝授の生命』が存する乎、伝授の生命なきものは既に形骸化した死物である。
此の一大事に明徴せざれば生涯を斯道に沈吟すと雖も正真の仙果を得るの便は遂に得られないであろう。
水位先生の著作「好道意言」を引用され
「玄道を好むものは、倫理を明め、君臣の分を守り六親和睦して、神仙微妙の道を真に慕ひ、神祇に祈り其の玄旨を修する時は真人の位置にも至るべし。」

又いかに玄学を好みて其旨を得るといへども六親和せず其の不和を苦しみ六親を棄てて深山に入り、窘洞に居して錬形服氣還丹の術を行ふと雖も、天神の照覧明らかなる故に竟に其行を遂げる事あたわず。
顔色衰へて四肢やせて身命を失ふに至る。
又よし長命を得るとも道を得る事あたはず。
故に幽冥神仙の玄旨を得むと思へば、嗜慾の為に好み慕ふべからず。
嗜慾の為に神仙久視の法を学ぶ時は返って寿命を縮めるに至る」。
此の道を思慕する求道者よ、事大小と無く正道を踏み至誠を推し一事の詐謀を用ふ可からず。

正道を以って之を行えば目前には迂遠なる様なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。
故に正真の信仰のある者は、たとへ火の中水の中であろうと必ず神祇師仙の御啓導に恵まれ、あまつさへも他を救う力も与えられると、そして知る者は言わず、知らぬ者は言ふ、真の求道士は人の目に触れる事はないと、これ等のことを肝に銘じ行ぜられよと仰っておられる。

 

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