神 仙 談

明治四十一年 九月二十九日 於華族会館 宮地嚴夫

                            河野至道の伝

私の直接に出逢ひました明治以後の仙人で是は東京に居りまして、
こちらに弟子が、沢山あります。川合清丸などは弟子にになったかどうか知ぬが、
其の傳を受けたものであります。山岡鉄舟も此の人の説を聞いて、余程得る処があったらしいやうであります。是から其の話を申し上げます。

*  *  *  *  *  *

此の人は河野至道と云ふ人であります。
私が教部省に居りました時に、教導職を致して居りましたから、伊勢の神宮に参りました。

明治二年に大阪に於いて神道の講義を致しました。其の聴衆の中に居って、私共の説を聴いたさうであります。
後に山から出て来て話をしましたから分りましたが、其の人は豊後の杵築の人で、通称を虎五郎と云ふ人であります。
是は大坂の蔵屋敷の番人をして居りました。
御一新後は大坂に留って、大坂府の属官になって仕舞った。

それが明治6年に始終講義を致して居りました席に来て聴いて居りましたさうですが、自分自ら言ふ処では、
この年の仲秋のことであった。

仙人研究を以て有名なる宮地嚴夫等が、教部省の命を奉じて大坂に於いて神通の講義をなしたことがある。

或る日の席上、諸君は飯の味を知るか。若し知る者あれば神通の奥秘を
傳へんと為したことがあった。その席上に一人の聴衆があって、翁からの問いを得て至極柔細めな顔貌に一介の雲を懸けたのであったが(此行意味不明)
家に帰って徹夜其の事を考え続けて、遂に其の五味に偏せず五味になれるものなるに想到した覚す。

決起して嘆声を発し、その翌日よりは一層の熱心を以て講義を聴き、後に志を立て修行の効を積み、至道寿真という地位があった。

此の立志の一節は、河野が後日宮地先生を尋ねて目の当たり、当時の事を物語ったので、始めて明らかにせられたのであるが、
当時には一人として其此の如きの人が聴衆の内にあろうとは思いもかけなかったのである・・

 

 

明治6年に始終講義を致して居りました席に来て聴いて居りましたさうですが、自分自ら言ふ処では、
そんな処から感激しまして、今まで疑って居ったけれども、神は愈々現存するものであるが、
どうすれば逢ふことが出来るかと云ふことを考えて居った。

神は慈善を好むものであるから、慈善をなせば宜からう。
清浄の業をなせば宜しからう。勿論富んで居るものでないから、
日に三椀食する処を二椀に食して、其の一椀を分けて貧民に与へた。

後には食を廃して、詰り絶食したのでありますが、さうしてそこで水を浴びてひどい荒行を致して居りました。

それから其の翌年即ち明治八年の八月には、大和の葛城山に登りました。
それが始めて仙人に出会った初めであります。

一人で山の上に参りまして、何も知らぬものでありますから、祓の詞を読んで居ったが、
其の日は日が暮れまして、何も山の上に変わった事がないねのであります。

が、夜中過ぎに遠方で鹿が鳴いて居たが、次第に次第に近くなって、
直に三四間の所に鹿が来たさうであります。
處が五匹伴だ立って、大きいのが二匹で、跡の三匹が小さいのであります。

河野が居るに拘らず、一向構はずに夜が明けるまで遊んで居りました。
夜が明ける前から何処かに行って仕舞ひました。

それから其の翌日水を汲んで来やうと思って居りまして、余程夕方になって居りましたが、
水を汲みに出て行った処が、向ふから年の頃三十前後になります者で、
紋付の羽織を着て、袴を穿いて、刀を帯して居る。

其の時分には廃刀であるのに、髪を総髪に結って、刀を帯して袴を穿いている。

自分の考えるのに、多分此の辺の医者であらうか、若しくは村役人であらうかと云ふ風に考えました。
ちょっと行過ぎました時に、向ふからひょいと声を掛けました、「お前は一体此の山の中で何をして居るのか。」と問ふた。
「私は少し修行を志して是に居ります。」と言ふと、
「今何処に行くか。」「水が欲しいからそこらに行く。と言ふと、
「そちらに行っては水は無い、こちらに来い。」と言って伴われて行かれました。

戌亥の方向の谷を沿ふて行くと険しい所がある。
其の険しい所を先生一向構はずに参りました。

それから谷の間を三四町行くと、誠に清い水が出て居りました。
それを汲んで来ました。

それから又帰り掛ける

「一体お前は斯う云ふ所に来て一人どう云う積もりで修行をやって居るか。」

「別に望みはないが、敬神の道を尽くしたいと思って来ました。」
と言って居った処が、元の道に帰りました、
處が「昨夜変わった事は無いか。」
「何もございませぬ。何もございませぬが唯夜前鹿が五、六匹来て遊んで居りまして、
其の内何処かに行って仕舞いました」
「お前は五、六匹と言ふが、それは五匹であらう。
大きいのが二匹、小さいのが三匹であらう。」

どうして知って居るかと思って、今度見ると、実に尊くて身に染込むやうに考へました。
そこで「今までは甚だ御無礼を致しました。
定めて貴い御方でありませうが、私は志を立てゝ茲に参りましたから、
志を得たいものであります。何卒御教導を願ひます。」
と言った処が「能く分った、お前は感心な者である、それなら私の所に参らうか。」と言って、
それからそこを片付けて、自分の帯を掴んで呉れたので、精々歩いて限りもなく行ったさうであります。

さうしてどうか斯うか辛抱して附いて参りましたが、
自分の志では、山と言はず、野と言はず、谷と言はず・一直線に行って、
二十四五里も行ったらうと思ふ程参ったさうであります、

さうすると身中が疲れましたから「モウ私は敵ひませぬ。」と訴えると、
人事不省になって仕舞った。

さうすると口から冷かの物が腹の中に這入って、総身に染み通るやうに考へた処が、
其の人が介抱して呉れました。

其の薬が利いたと見えて、すっかり恢復して、何ともない。
大層異ったやうな心持になった、

それから「どうだ、モウ宜いか。」
「左様でございます。モウ苦痛は一向感ぜぬようになりました。」
「それなら宜しい、是から直きであるから行かう。」と言って、
四五里も行ったさうであります。

行ってみますと、樹木の森々たる頗る山の固った樹木の茂った所でありますから、
「何処でございますか。」と言ふと「吉野山である、即ち自分の仮の居場所である。」
「それならあなたはどうした者であるか。」と言ふと、
「元大和の国の或る神社の神官である。
さうして少し世の中に感ずる処があって、初めは富士山に登って、
富士山の神仙に就いて修行して居たが、今は茲に来て居る。」
と云ふひとから段々話を聞いて見ますと、
其の人は應永の初年に生まれたもので、さうして丁度足利義満将軍の時分の人だったそうであります。

世の中の慷慨に堪えぬ事があって、終に四十歳の時から此の山に這入って仕舞って、
神仙の道を修行して、今茲に住んで居るのであるが
お前の精神を甚だ感じ見込んで斯う云ふ所に伴われて参ったのであると、向ふから言ひました。

それから段々自分の志を話しまして、教を受けるひとを請ひましたから、懇ろに教へられました。
それから師弟の約をなしました。

師弟の約をなしました処が、偖さう云ふ師弟になって見るとまだ人間の果敢なさに、
其の日の四時頃になって来ました処、気味が悪くなって堪らない。
それから其事を話したそうであります。

「折角是まで参りまして、御目に掛かって、甚だ有り難い事であるが、どうも私は人間の汚れで、
地上の事が気になって堪らぬ、どうかモウ一遍帰ってみたい、それから又参りたい。」
と申しましたら、

「尤もだ、帰り道は斯う斯う斯う云ふ風に行ったら帰れる。」と言って、
余程遠い所まで送って呉れました。それから今度葛城山に戻って来ました時には、
勿論夜分は途中の庚申堂の中に泊って、二泊して帰ったさうでありまそれで行った時は、一直線に行って、飛んで行ったかと云ふと、さうではない。
穿いて戻った下駄に土が付いて居るから、歩いて行ったらしい。

不思議に思って、それから斯う云ふ事を聞いたさうであります。

「あなたの飲ませた薬は、どう云ふ薬でありましょうか。
あれを飲んでから心持がはっきりして、今までの疲れを忘れたやうである。」
と申しましたならば、
「山の草木の中にあるから気を付けて見よ。」と言って、教へて呉れませぬ。

それから「どうも分かりませぬ。」と言ふと、
再び教へて呉れた。「桂樹の下には草生ぜす、麻黄の茎には雪積もらず、其の他は皆之に準じて知るべし。
草木を心かけて山を廻らば、自然に薬を知ることが出来る。
必ずしも他の教を待たぬのである。
又雨のときに松樹の下に光を放つものがある。
之は茯苓だ。其れを析くと茯神がある。分てば精と神とになるが己が身中にも亦自から神もあれば、精もある。」
と云ふことを言ひまして、それから段々道理を説いて聞かせました。

それを初めとして色々の傳を受けたと云ふことであります。

それが初めでありまして、それから帰って来ましても、折々山に通って居ました。

明治九年の夏の頃でありましたが、大坂の私の寓居を尋ねて来ました。
其の時に「アケビ」の実を二つ持って来ました。
尤も中間に中沢と云ふ者を紹介者として居りますが、実は山に這入らぬ前にあなたの講義を聞いて、
神の存在を確信して山に這入りました。

さうして終に茲に至りましたから、此の度御伺ひ致しますと言云ふことで、
其の後私共の所に屡々来ました中に、何も食べませぬ。
唯葛湯をたった一椀食べましたし、朝昼晩は葛湯を飲んで、其の間には空気を吸って居りました。
そこで三日泊めて見ました。

あのやうに言ふけれども、何か食ひはせぬかと思って、三日泊めて見ましたが、何も食べませぬ。
それで元気は少しも衰へませぬ。其の時が丁度五十位でございました。
或時腹を出して見せました。「私は食事をしませぬが此の通りでございます。」と言って見せましたが、
鞠のやうに脹れて居りました。
それに力を入れて打つと、ボンボンと太鼓を打つやうな音がしました。

それで自分が今の山中照道に教へをうけたものを筆記させました。
眞誥と申しました写しがあります。
河野至道の家内の兄の木村知義と云ふ者が至道から聞きました事や文通した物を集めまして、
三十五六通ありますが、それを写して呉れました。
此の傳を見ますと、そんな物を多く集めてあります。

それから明治十年に帰りました河野至道は、内務省に勤めて居りました。

十三円の月給であったが、毎月十円宛の貯金をしました。
何も食はぬで居りますから、少しも入費が要らぬのであります。

それから山岡さん初め段々入門されたと云ふやうな訳で、東京で七十人から弟子がありました。

私の知って居ります湯川と云ふ紀州の者でありますが、さう云ふ工夫でやって居ります。

それから
拓殖石見守と云って伊勢神宮の禰宜でありますが、穀を焼きましてやかましくなりましたが、
是も門人でありまして一向食事をとりませぬ。

それから岩倉さんから御話を伺ひましたが、穀を食はぬ者は黒色がないそうでありますが、
今の拓殖は穀を絶って生食を繋いで居りましたが、子供が出来まして西洋人のやうに赤い髯が出来ましたが、
そんなやうなことで、是も早く死にました。

死にましたところが是は御話がございますが、是は不思議なものであります。
此の仙人の中に白日昇天と云ふ事があります。

天智天皇などは白日昇天でありますが、御靴を召して行き方の知れない事がありました。

其の外に伊勢の常昌と云ふ神主をして居りました者は、石段の十八段目から空中に上って仕舞います。
それが白日昇天であります。

それから唯家の中で隠れて仕舞った者は無数であります。

其の中の尸解と云ふものは、世の中の人には死んだやうにしまして、其の後偶々其の人に逢ふことがあります。
此の尸解に就いては色々の御話がありますが、長くなりますから止めて置きますが、
今の河野は尸解したのであります。丁度暑中でありましたが、
七月の末から八月の初めまでに掛けて行をして居った。

それで百日間断食をして居りました。是までは水を飲みましたが、
其の時には水も飲みませぬでしたが、百日経たぬ中に死んで仕舞いました。

然る処墓を掘ってみると、着物だけ有って、躰が無いと云ふことでありました。

畏れながら日本武尊が逝去されたに就て、百官が集って御祭りをして居る中に、
白い鳩が御墓の所から飛んで出ました。
それから不思議に思って掘って見ると、何も無かったと云ふ事が歴史にあります。

今の河野も定めし尸解したのであらうと云ふことでありますが、
墓の中を掘って見る訳にいかぬで、見たいと思って居るが仕方がないのでありますが、
妙な事であります。  

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