力強く光を求めている日本人

 

毎年二月に行われる豆まきは、このエゴの全滅を象徴した行事である。

家中に豆をまいて、エゴの象徴である鬼を追い出そうとする。
しかし、鬼は、いっこうに家から出て行こうとしない。そこが彼らの住み家だからだ。
鬼は、私たちの内に住んでいるのである。

 

また先日、東京・池袋の西武美術館で行われた「パキスタン・ガンダーラ美術館」にも、エゴを表現したレリーフが展示されていた。
「魔衆の攻撃」と題されていたが、これは釈尊の修行中に多くの悪魔達たちが攻撃をしかけた様子を表現したものである。
釈尊の伝記の中では、「降魔成道」と言われているシーンだ。

 

 

 

次頁(画像)のレリーフは二世紀頃に彫られたもので、降魔成道を表現したものの一部分である。
写真を見ればお分かりのように、いずれも醜い。そして、手に手に武器を持っている。
これがエゴである。私たちに、これらの醜い怪物どもが、ベッタリと付着しているのである。
そして絶え間なくサイキスに向かって、
「罪を犯せ!罪を犯せ!罪を犯せ!」と、けしかけている。
私たちの弱点を知り抜いているから、色々な手を使って誘惑しようとする。

そして大変残念なことに、人々はこの怪物の言いなりになっているのだ。
しかも、その存在にさえも気づかないで、エネルギーを吸い取られている。

 

エゴは私たちがどうなろうと、斟酌(しんしゃく)しない。
大食のエゴは、私たちの胃が悪くなろうと、太り過ぎて心臓に負担がかかろうと、お構いなしである。
酒好きのエゴは、アル中になって廃人同様になろうが、知らん顔で酒を飲み続ける。

 

そして、死後、法の審判の前に立たされた時、私たちが生きている間にやってきたことを言い立て、並べ挙げるのは、このエゴたちなのだ。
言いなりになっているのは、まったく馬鹿馬鹿しいことだと言わねばならない。

 

こうしたエゴについて表現し、伝えているものは、先に挙げたもの以外にも見つけることができる。
イニシエイトたちは、光を求める人々に伝えるために、象徴的な方法でそのことを表し、遺しているからだ。

 

光を求め、人生の意味を問い続けている人は、大変注意深い。
自分の内にいつも、「なぜ?なぜ?」と、問いを発し続けているからだ。だから答えを見つけることができる。

普通の人なら何の気なしに見て、そのまま通り過ぎてしまうところを、彼らは立ち止まって、その表現が、自分の問いに対する何らかのヒントになるのではないかと、と考えるからである。

 

前に、古代の遺跡や仏像などは、教科書のようなものだと述べたが、それはこういうことなのだ。
そして、同じ仏像を見るにしても、自分の段階が上がるにつれて、更に多くの神秘を読み取ることができるようになるのである。

 

日本には今、世界中から様々な古代の文化遺産が集まってきている。
エジプトから、インドから、中国から……。
そして、その展覧会も盛況だ。

私はそんな日本の人々を見る時、大変力強く思う。人々が光を求めていると感じるからである。

 

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