宮地常磐

(みやぢ ときわ)文政2年11月15日 (旧暦)11月15日(1819年12月31日) - 明治23年1月15日(1890年11月15日)は土佐国潮江
天満宮の神主。
父は宮地美作(菅原重幸)で長子であられた。
子に宮地堅磐。
幼名は佐之助。後に、上野佐重房、布留部(ふるべ)。
他に大重(おおしげ)との記録あり。
玄学上の道号を玄心と称す。
明治4年頃より故あって常磐を名のられたが諱であった。後に実名とした。
従五位下上野佐に叙任。

土佐国土佐郡潮江村(高知県高知市土居町)の生まれ。
天保2年8月9日満12歳の折に任官して、佐之助から上野佐重房と改名され、諸国を見聞の後土佐国潮江天満宮の神主を務める。

潮江天満宮は宮地家が代々祀職を勤めており、遠祖は日本武尊の第四王子建貝児王から八代目の宮地信勝が土佐国潮江村に転居して、
菅原高視に仕えたのが潮江宮地家の始まりとされる。
ちなみに菅原高視は菅原道真の嫡子。天保10年常磐20歳の砌大宰府に参宮し、時の神主但馬と神葬式の義を京師に誓願するも
聞き届けられず。
嘉永4年には上京して請願しているが、やはり聞き届けられなかった。
嘉永から安政年間にかけて、万葉学者、鹿持雅澄の鹿門十哲の一人として『万葉集品物図絵』などを画く。
又この時期に潮江天満宮神主宮地守遠と共著で『天満宮居考』の序文を記す。

嘉永5年11月8日長男の堅磐(水位)誕生す。

嘉永6年2月22日厳父美作の跡を踏襲して天満宮神主となる(常磐23歳)。

安政元年常磐36歳の砌二月に再び上京して、神葬祭を請願されているが、聞き届けられず。
36歳までは神職より武術を好み、特に弓術と砲術は先生と呼ばれるほどの腕前であったが、砲術の師から武術より本務である神明に
奉仕するよう深く諭され、それより後は神職の務めをまじめに行うようになった。
この出来事が大きな転機となり常磐は安政2年正月元旦より、昼夜を問わぬ修行を始める。(常磐37歳)

安政4年には師の依頼により『鹿持雅澄像』を画く(常磐39歳)。

安政5年岩蔵と称す地元の住民より、異境の所見を聴集した「異境物語」を物す(常磐40歳)。

萬延元年(1860年)6月13日手箱山を開き鉾を山上に立て、『大山祇神の璽』と仮に定め十三社を鎮祀した(常磐41歳)。
萬延2年3月4日常磐の神との信任交流が噂になり国君連枝まで及ぶようになり、これを憎んだ奸臣や地元の神官達より讒言され、
手箱山の開山と神懸りの事を詮議され神主を差し止められる(常磐42歳)。

文久3年常磐は尊皇攘夷の志も強く土佐勤王党に入るも、その首領である武市瑞山が投獄後も長崎偵察など活動を行っていたため、
謹慎を命じられ神主職を追われる(常磐44歳)。 
2年後復帰この時山内兵部の依頼により常磐神符を出す(常磐46歳)。

慶応元年十数年の積年の功により、大山祇神に拝謁を許される(常磐47歳)。

慶応4年(1868年)4月21日には信濃の神主倉沢義随の紹介により平田家に入門し平田篤胤先生没後の門人として名を連ねる
(常磐49歳)。

明治2年名を布留部と改める。弓術の絶える事を憂い、師範を命じられ、大衆を導く。
同年9月19日『石鎚神社神名考』を著す(常磐50歳)。

明治3年5月25日中風を発病す。この年伊勢神宮に参拝す(常磐51歳)。
神仏分離令により、明治4年、神社改正鎮祀役を命ぜられ、神仏の取り分けを行う。
廃藩置県のため廃校となった致道館から所蔵の図書を入札し、息子堅磐のために膨大な書籍を残す。
又この年御令室を伴い、京都鞍馬山・貴船神社に参拝す。
故あってこの年から諱を常磐と改名す。神社改正鎮祀役に就任し、足摺山の神仏取り分けを奉仕する。

明治10年潮江村の住民台帳其の他を提出する(常磐58歳)。

明治13年6月13日『家訓』を記す(常磐61歳)。
其の後中風を再発し、殆んど身動きが取れなくなる。

明治23年1月15日逝去。享年72。
潮江天満宮に隣接する筆山の中腹には水位が建立した宮地家一族の墓碑や常磐翁の立派な奥津城が鎮まっている。

<エピソード(一)手箱山開山秘話 >

後に水位は手記の中に、父上の手箱山開山についての回想を下記のように述べておられる。

「父上は三十七歳正月元旦より感ずることもありて修行し、苦節十年にして大山祇命の依頼により、土佐国吾川郡安居村の高山手箱山と云ふを
開山し大山祇命 を鎮祭し奉り衆人を集へて大鎖三十六尋を此の山にかけたり。

其時より父の神明に通ぜし噂の盛んになりて奸夫十八人其事を種々に申し立て遂に神主職も放たれ遠方往来さへ留められけば、
父の代わりに堅磐十二歳にて神主職に召し出されたり。我は父の萬分の一も其勤めなくして神明に見えしは、これ全く父の恩頼によるなり。

父は画を好みて其稽古をもせし故に、神々の御形も多く写し置きけるが中に、大山祇神の御眷属を率ひて見はれませる時、
御許しをうけて写したりとて秘め置ける神像の図は殊の外に厳重なる御備立てにて畏く見奉るなり。

又父の開山せし手箱山は豫州石鐵山(石鎚山)と牛角の如く屹立して最高山なり。
石鐵山は海神三筒男の神の鎮り給ふ山、手箱山は大山祇神の御鎮座にて其後郷社となれり。」

と書き記しておられる。

補足

水位先生の親族の中に浜田厳彦・満寿子夫妻がおられ、満寿子は水位とは従妹にあたる。
ご夫妻は時折潮江天満宮に出かけられ、参拝のあとは社務所を訪ねて水位と会談することを楽しみにしておられた。

夫の厳彦は或る時、土佐の沿海を旅行中に海が荒れて船が難波し
氏は九死に一生を得て不思議に命拾いをせられたことがある。

ところが其のとき自宅の神殿に奉安してあった桃板の庚申守が錦の袋と共に、びしょぬれになって居たので驚いてよく調べてみると、
其の水は塩分を含み海の匂いがして居り、全く海水であることがわかった。
其の桃板の守りは水位先生が修法されお守りとして浜田氏に手渡されたものである。
またある日のこと、長門の宗教家と同伴した満寿子刀自に、父君である常磐翁の手箱開山秘話を話された。

・・・常磐翁が神命を受けて愈々登山の決心をせられた頃、或る日見ず知らずの子供がやって来て、
山上の鎖は斯く斯くの鉄工所へ注文して来たといふ。

それから何日か経って登山のとき、その子供もやって来たが、一行のものが山上に辿り着いて、
これから愈々鎗を立てたやうな最頂上の懸崖を攀じ登って鉄の鎖をかけねばといふ段になって全く途方に暮れて了った。
山に慣れた剛の者でも側面の岩角を猿の如く伝うて辛うじて登り得るところの峻険で、
殊に正面は百数十尺の斬り立てたような岩面であるから、身一つでも人間業では容易のことではない。

そのとき突如として例の子供が、五、六十貫といふ鉄の鎖の一端を持って隼の如く電光石火の勢ひで
正面から其の岩壁を駈け登って了つたので、一同のものは唖然とし、さすがに腹に据わった常磐翁も
此の時ばかりは胆をつぶされたさうである。

そして其の鉄鎖の寸法も長からず短からず、ピタリと合って居た。
この子供は実は神界から来た異童ではなく、其の山麓の或る農家の子供なのだが、
一時的の神懸りであって其後は何の奇も妙もなき平凡な子供であったと、後に回想された水位翁の口より直接満寿子は聞かされている。

*手箱山上に鎮祀の十三社について

手箱山は岩榴王権現社とも称され、昔から由緒のある霊山で、一大神仙境でもあります。
それを道開きの神の命により宮地常磐翁が登山され、頂上に御矛を立て給ひしは、万延元年六月十三日であるが、其の後文久三年に
其の矛を抜き改めて十三社を鎮祀せられたのであります。

その十三社とは、第1 八王子社 第2 木花咲耶姫神  第3 天照皇大神宮 第4 豊受皇大神宮 第5 天満宮 

第6 大名持神・少彦名神・事代主神神社 第7 猿田彦神社 第8 大綿積神社 第9 大山祇神社 

第10 常磐・堅磐神社(鎮魂八神の社と称されてある)

第11 岩長姫神・大市姫神社 第12 加具土神社 第13 大山咋神社

第9番目の石の祠の社殿が、此の神山の御本社で一番奥に祭られている。


<常磐門下(二)・山尾寅吉について>

潮江の神人・宮地常磐翁の門下生については、あまり良く知られていないが、少なくとも数十人の門弟がおられたことは、或る記録から
判明している。
信濃の国の倉沢義随のような県外の弟子もおられ、土佐の神官・山尾寅吉も数少ない常磐の門人であったと言われている。
山尾には仙骨があり、若き頃より幽冥の道を好み、独学で神通力を体得し、神明に通ずることを得たと言われている。

天満宮の宮地父子の下にも 度々訪れては幽冥の話しを楽しげに談話なされておられたが、帰幽に際しては宮地父子をも自宅に招へて
盛宴を張り自ずから鼓を鳴らし大音聲に謡をうたひ、その席上で美事大往生を遂げたほどの、徹底ぶりであったが、後日常磐翁は思案の末に、
子息の水位に次のように語られ
「残念なるかな。山尾寅吉は狗賓界に落ちたり」
と、洩らされた事実がある。

常磐翁ほどの霊的実力ある明師に就き生前自ら神明に通じていたほどの得力あるものでさえも此の通りである。
神仙の求道は謙虚な上にも更に謙虚でなければならないと申されております。 

宮地父子には、生前二人を慕う門弟が数多おられたようだが、常磐先生水位先生の前に常磐・堅磐両先生おらず、後にもおられずで、
幸いにも姻戚筋の・・・・道を得道なされた宮地嚴夫大人や伊予の矢野玄道大人は別格的存在でありまして、其の外恩寵を受けて得道なされた
道士の方も数人おられたと言われている。

*瓜の蔓には矢張り瓜しかならぬので、仙果を成就して得道するのは矢張り判令(仙界級位)の前身者で、仙の前歴なき輩は、
たいてい下手の横好きで終わるのが定石のようである。
 

 (三)空中飛行術と常磐翁

   <神仙のお試しについて>

宮地神仙道中興の祖宮地常磐先生は三十七歳正月元旦より感ずるところがあり、
毎夜子の刻より起きて修業され苦節十年にして神仙の道に通暁なされました。

以後大山祇神に拝謁を許され、海宮界及び諸神界にも通ずることを得、天狗界の ものをも使役せられました。

ある時節神仙より飛行の術や海上歩行の法も行なはんとして其の用意をいたして おりましたが、
あまりにも奇妙な法を授かった嬉しさに、神明に堅く口止めされていた 神法を思わず信仰の諸士に語り、
其のお咎めによって明治三年中風病を発して神明 より授かった神法道術は多く忘れられたと言われておりますが、
時々思い出しては 弟子達に語り出すので、ついに神仙の怒りにふれ明治十二年には言語を止められ
手足もかなわなくなり、それより一言半句も喋る事ができず晩年は悲惨な最期を 迎えられたと異境備忘録に記されております。

さらに興味深き事は、常磐先生から飛行法の秘事を聞かされた二十九人の弟子達 は、
それ以後いかなる事でありましょうか二十八人は死んでしまい、今其の中の一人 は残って家貧しくなつてしまったと
当時の記録には書かれております。

よつて神明より 授かった秘事類は死すとも決して漏らさぬが肝要也と念を押されておられます。

常磐先生に空中飛行の術を授けられました神仙はこの法術を授けたなら、その結果 常磐先生がどのような結末を迎えるか
知っておられたはずでありますが、何ゆえ敢えて 秘事を授けられたのでしょうか。
神仙は常磐先生をお試しになられたのであります。

常磐先生ほどの神仙に通じられた御方でも道を誤られる事があります。我々道に 志す道士はなおさらの事であります。

この事実譚を読みますと、法を生かすことの 出来ないものが高度の伝法類を得るとその結果どのような結末を招くか実例を持って
教示されておられます。

故清水先生も「神界秘事の伝授という事は、その伝を得て更に相応の得行なり人格 を備えると謂うことが必然要求されて居ります。
神界秘事を得ても、相応しく無い者に は凶器となり身に災いを生じる基となる事は、水位先生も口訣秘記の中に、一法一法
添え書きなされておられる。」

と申しておられました。
この点さすがに宮地厳夫先生は道を畏れられたらしく、実子威夫先生が若かりし頃、
戯れに目的もなく法術を使用された事に対して、温厚な厳夫先生は厳しくお叱りになり、
二度とそのような安易な心持ちで術を使ってはならぬと窘められ、
以後威夫先生は肝に銘じられたそうであります。

宮地厳夫門下の数少ない弟子の一人であられました掌典職星野輝興先生に対するご指導も徹底しており、
厳夫先生が星野先生に授けられた伝法は自修鎮魂法でありましたが、
以後七年間疑う事も無く一心に修業を持続された星野掌典職は、ある日明治天皇さまの御製を詠じ、
神仙の道を会得なされたようであります。

宮地水位先生に於かれても、生前は門弟に対して神秘の道術伝授は大半なされておられず、
本来の神仙の道とは古来からそうしたものであられたようであります。

始は之を見るに信行を以てし終わりは試みらるるに危困を以ってせらる。
性厚く行い貞しく心に怨み疑う事なくして乃ち堂に昇り以て室に入る事を得たり。

<常磐先生家訓>

*人の道たるや執本(もとをとる)を第一とする。
身の本は神なり故に常によく神に敬事し大空幽境ありて黒色(すみいろ)の玉殿澤光を放ちたるに、神等の坐して幽政を掌り給ふ事を
畏み奉りて生ながら幽冥の宮舎を拝み奉る心掛けをすべし。

*神に敬事するは空飾空拝にあらず。
身力を尽くして鴻恩を謝し神随の誠の道を弥益々に広め、神の人を愛撫し給ふ万一を扶け奉らむ心掛けを肝要とすべし。

*神恩君恩を忘れて身を恣(ほしいまま)にし、神と君とを軽蔑侮凌するものは神敵朝敵国賊にして、不忠不孝の極まり也。
神仙の悪み家も身も滅亡せざることなしと知るべし。

*読書博識を慢するの為に非ず。神随の大道を明らめ拡むるを羽翼とすべし。

*古今内外の事情を知らざれば頑愚にして身を立てること難し。
故に研究練磨してますます神国の神民たる義務をつくし道に功を立つべし。

*神に敬事するの門は、親族を協和するに在り。
各身を省みて過ちを改むれば和せざることなし。
家内親戚和せずして神に敬礼すとも神の受納したまはぬ事としるべし。

*身を立つる礎は堪忍の二字に在り。
一時の忿怒に損失すべからず。
貪欲を堪忍して節義を思はば、高きを望まずして自ら高きに登り得るものと知るべし。

<神明に通じる>

宮地堅磐の回想記録によると、父が砲術の師である田所氏に諭され武術をやめてからは、真夜中雪の降る中、
地上に立ち天を拝し神前を礼拝するなど苦行なみの神行をすること23年を積んで遂に、大山祇命に邂逅し、以後諸神への拝謁や、
幽冥界往来により幽境78区界を見聞するなど、常磐の神通力は正に天衣無縫で天狗などを使役する事など朝飯前、
諸事万般に亘り神明幽理に通じていたとされる。

石鎚山系にある手箱山の開山も大山祇命の御依頼によるという。

若き頃より書画を嗜み「万葉集古義品物考」の植物画や師の肖像画なども詳細に描写しており、一流の審美眼の持ち主でもあった。
天稟の画才力を以って幽冥の神々を描き、見聞した諸々の幽境の模様などを精密に筆写しておられた。
一部の絵図類は今日に到るまで大切に保管され遺されている。

同族の宮地嚴夫が主導となり伊勢の神風講を土佐国中に普及される活動を始められた折には、神社の御神札として常磐が
描写されたものを、一部の地域に頒布されている。
中でも大山祇大神の真図は壮麗を究めたもので、眷属を従えた勇猛果敢な神姿及びその光景は目の当たりに常磐が直写したものと
言い伝えられている。

堅磐はときおり父の代理代行として手箱山や大滝神境並びに幽冥界にも往来しており、堅磐は常々
「私の神通霊力は父譲りで、父の厳格なる修練薫陶の賜物によるものである」と申されておられた。

『父 君 略 記』

美作主の長男なり。母は宮地神齋主の女。
常磐主長して痩体尤健身 容貌美質 天保四年癸巳年に至りて十五歳。
同年三月村上専八に就きて画道を学び、習字を竹内某に学び、及び吉岡兎内氏より教えを受く。

十八歳の頃、剣術居合い手裏剣等の諸氏に就いて修行する傍ら俳優に工あり。
弓術を宮地亀十郎氏に学び奥義に達す。

三十一歳砲術師田所忽氏に随ひて、砲術を学ぶ。
その奥義に達し、師の代理と成大砲鋳造ある毎に試験役を蒙る。

師田所氏云く、砲術弓術如何に極むるも、足下神官の家に生まれて、
神明の恩頼を蒙り其神明を尊崇して国教を邦域に拡充するぞ其職分なる。
之を捨て、他の芸事に渡るは神職の分を失うと忠告せられ、
忽ち其の言を諾し翻って敬神の道に基づき、其年十月より夜半に起き、庭前に立ち四方を拝し、
黎明家に入りて神前を拝し、午前十一時にして朝飯す。
此の間二十三年なり。故に神通を得たり。

一、常磐先生は、宮地美作主の長男として文政二年十一月十五日辰の下刻に生まれる。
  幼名を佐之助と云い、天保二年八月九日満十ニ歳の時仕官して、上野佐重房と改名された。
  
  先生の御改名は、始めに佐之助次に上野佐重房、次に布留部と称され明治四年諱を常磐とされた。
  歌人仲間では宮地大重と称し、玄学上の道号は玄心と称した。

一、天保十年 大宰府に参官し、時の神主但馬と神葬式の義を京師に請願したが、聞き届けられず。

一、嘉永から安政年間にかけて、鹿持雅澄の門下として『万葉集品物図会』を描く

一、嘉永四年神葬祭を上京して請願したが聞き届けられず。

一、嘉永五年十一月八日 長男堅磐誕生す。

一、嘉永六年二月二十二日。厳父美作主の跡を襲いで天満宮神主となる。 時に二十三歳

一、嘉永年間『天満宮居考』の跋文を宮地遠と共に記す。

一、安政元年 二月上京して、神葬祭を請願したが、聞き届けられず。
   宮地竹峰は「是実に常磐翁の実行の鉄腕家としての片鱗である」と云う。

一、安政二年正月元旦より、昼夜を問わぬ修行を始める。時に三十七歳
  「父君略記」には、「十月より、夜半に起きて庭前に立ち四方を拝し」とある。

一、安政四年「鹿持雅澄像」を画く。

一、安政五年 岩蔵より異境の所見を聴集した「異境物語」を物す。

一、萬延元年六月十三日手箱山を開き、鉾を山上に立て、『大山祇神の璽」と假に定める。

一、萬延二年三月四日 常磐先生の信任は国君連枝まで及ぶようになり、これを憎んだ奸臣より
  讒言され、手箱山の開山と神懸りのことを詮議され神主を差し止められる。

一、文久三年、武市瑞山監獄に入る時、山内兵部の依頼により、神符を出す。長崎の事情を視察する。

一、慶應元年 積年の功なり。大山祇神に拝謁する。常磐四十七歳

一、慶應四年 四月二十一日平田家に入門す。
  紹介者 倉沢義随(信濃小野村 矢彦神社神主)

一、明治二年 名を布留部と改める。弓術の絶える事を憂い、師範を命じられ、
   大衆を導く。明治二年九月十九日『石鎚神社神名考』を著す。

一、明治三年 五月二十五日中風を発病す。この年、伊勢神宮に参拝す。

一、明治四年御令室を伴い、京都鞍馬山貴船神社に参拝す。
  諱を常磐と改名す。神社改正鎮鎮祀役に就任し、
  足摺山の神仏取り分けを奉仕する。

一、明治十年潮江村の住民台帳その他提出す。

一、明治十三年六月十三日『家訓』を記す。
  その後中風を再発し、殆ど身動きが取れなくなる。

一、明治二十三年一月十五日帰天。時に、七十二歳
  常磐先生は鹿持雅澄十哲の一人と称せられ普通
  村人は東の宮地と呼んで、宮地守遠とは区別していた。
  宮地守遠も天満宮祀官の一人で『天満宮居考』に常磐先生と並んで跋文に名を連ねている。

  先生は特に絵画に堪能で、現存する大山祇神御神像を始め幾多の神々の御神像を画かれた。

   その師雅澄の万葉集品物図絵に筆を染め
  その大著たる万葉集古義の完成に助力したと
  『土佐歌人群像』に記載されているが、万葉集古義の完成に助力した部分には疑問が残る。

 

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