宮地威夫

(神仙道誌より)

水位道統第三代・神仙道総裁 泰岳宮地威夫先生は、明治十九年三月三十日、厳夫先生の長男として生誕せられた。

東京農科大学を卒業後、宮内省に奉職せられ後、神社界に入られたのであるが、鹿島、香取、大神(大三輪)、霧島の各神宮各社を歴任せられ、昭和十四年には、官幣大社南洋神社御創建の命を受けて遠く海外に至り、自らの設計指導を以て御建立の大業を果され、其栄誉ある初代宮司として就任されたが、大東亜戦争の頃、令息危篤の報に接して急拠内地に帰来せられ、官の好意により、国幣神社寒川神社宮司兼務の形式を以て内地滞在の取り計らひを受け、重体の令息を看取られつつある間に終戦を迎へ、其儘寒川神社宮司として留任された。

先生は、二男一女を挙げられたが、令閨は早く世を去り、長子は斯(か)く病に倒れ、二男亦戦地に没せられ、令嬢は夙(つと)に祝(はふり)家へ嫁がれていたので、厳夫先生以来仕へられた忠実なる家婢にかしづかれて孤独な社務所生活を送って居られたが、昭和さ廿六年秋、期するところありとして、寒川神社を最後に、神社界を辞して、鵠沼の隠宅に閑居せられ、先考方全先生の御遺志による道書整理に没頭された。

かくて先生は、特別の場合を除くの外は、極力表面に立たれることを避け、精力を「蔭の仕事」に集中せられたため、神仙道総裁とそて、外面的に道士に接せられる機会は極めて少なかったが、道業の上に関しては、常に細密なる関心を以て終始適切なる指示を与えられた。

例えば、先生の御存在は、氷山に似たる如きで、外面的な形には殆ど現れずとも、其内面的な水面内に隠れた蔭の座の重量は、巨大なるものであったのである。


正真道統の所在

第三代水位道統を方全霊寿真より承統し、初代神仙道総裁として、水位神仙道の公的修道機関たる、神仙道本部を創立し、茲(ここ)に、道業中興の大任を果された泰岳 宮地威夫先生は、昭和卅年四月廿七日の早晨(そうしん)を以て、肉体を脱せられた。

其前日迄は、普通日常の起居と何ら変りなく、前夜も近隣の眤懇の老友氏と、碁打ちなどに興ぜられて、寝に就かれたのであるが、早朝起きがけに、日課の持薬せんぶりを、熱く沸かして持ってくるよう女中さんに命じられ、いつもの様に其れを喫せられて、十分間ほど黙然と坐っておられたが、突然大きく息を引いて、「うむ」と一言せられ、其儘神変された。

仙伝に所謂(いわゆる)尸解仙の肉体を脱せられる其の様の如く、修道の士として、誰もみな斯くあらまほしく思わるる、大解脱を遂げられたのである。

先生の天定の御使命は、実に今日の水位派神仙道中興道業の、其の中継的御役目にあられた事は申す迄もない。

前にも引ける御声明の如く、先生の道統並に学系継承は、実に霊的環境的事実であり、其先生の継承された道統並に学系を、公的機関たる我神仙道本部に引き継がれたことも亦、歴史的環境的事実として、天下衆知のもとに行われた。

 

(つづく)

 

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