宮地堅磐

(みやぢ かきわ)嘉永5年11月8日(1852年12月18日)-明治38年3月2日(1904年3月2日))は、潮江天満宮の神職。
祖父は美作。父は常磐。母は熊沢弥平の二女。
幼名は政衛(まさえ)。後に清海、中和(ちゅうわ)、後年大病後は再来(よりき)と称す。
道号は水位(すいい)、中嶽、大有洞人とも称す。
家の名は苔生舎(こけむしのや)。諱は政昭。
一般的には堅磐よりも「宮地水位」の名の方がよく使われるが、以下堅磐を使用する。

土佐国土佐郡潮江村上町(現、高知県高知市土居町)の生まれ。

9歳の時に鏡川で溺れて九死に一生を得る。

11歳の時から18人の師匠に就く。
就学の種目は、水練、文学、漢文、習字、経書、歴史、易暦書、居合、剣術、弓術、手裏剣、砲術、医学などを学んだ。
後年は書道を嗜み、祝詞類は顔真卿を彷彿とする端整な書体であり、短冊などは天衣無縫な筆致として知られるという。

宮地家の遠祖は日本武尊の第四王子・建貝児王(タケカヒノミコ)より出でその8代目の子孫・宮道信勝が山城より土佐に転住し
高視(菅原道真の長子)に仕えたのが宮地宗族たる潮江宮地家の発祥とされる。
後に高視に授けられた道真の遺品(鏡・剣)を奉じ御霊代として八大龍王社に合祀したのが土佐の潮江天満宮の起源である。

堅磐10歳の頃には、厳父常磐の使いとして脱魂(使魂)法により神界に出入し手箱山の神境に来往した。
大山祇神の御寵愛を受け、其の御取り持ちにより少名彦那神に拝謁する事を許される。
これらの幽冥界の有様を一部書き留めたメモ書きが後に『異境備忘録』として伝わるが、神秘を穿つ大切な記述箇所などは墨で
削除したり祝融されていたという。

堅磐12歳の時に、父・常磐が讒言により任を解かれ、潮江天満宮の祀職を継ぐ。
文久3年13歳で神祇官領卜部家の許状を得て任官。
宮地若狭佐菅原政昭を名乗る。

水位は若き頃より学問に対する造詣が深く、その探求する姿勢は学者肌で、神に仕える他は著述読書に没頭した。
藩校・致道館廃校の折には父常磐が堅磐の為に、蔵書数万冊を購求した。
慶応3年16歳の折には『勧懲黎明録』を著す。「是予の著述の初めなり」と家譜に誌される。
以後大病に罹る37歳ころ迄精力的に著述に没頭し、概算すると著作量は百数十冊(和綴じ本にして推算すると冊数250部500冊内外に
及ぶと言われている。

大病後も明治29年から明治33年迄細々とではあるが著述を物している。
惜しむらくは水位の生前にはほとんど出版製本される事もなく、貸与したものや寄贈の蔵書類は火災にあうなど大半は烏有に帰した。

明治初期の神道学者矢野玄道も水位に師事し、玄道の名著『訂正大学』は実に水位26歳の時の原著によりて大成したという説があるが、本書に関する限り矢野著述目録には存在しないようである。

青年時代には神職の身で、高野山や法隆寺を訪れ、短期間ではあるが名刹と言われる古寺などにも逗留し土蔵に埋もれた
珍籍奇書や大蔵経などを借覧して閲覧したり、道蔵や神道史料の補翼となる仏書や漢籍などから重要と想われる箇所を抜粋して
筆写され、閑暇な折には書肆などを訪ねて奇書を求めたという。
筑紫の国を旅した折にも旧家で偶然に、奇書の一つとされる道家伝来の秘書『准南萬畢術紀』を入手している。

明治2年、18歳の砌、手箱山、石鎚山、金毘羅宮を巡拝。明治6年には東京下谷の学舎で一時期講授補役を勤める。

明治7年23歳祠掌となり家名相続。

明治15年に皇典講究所の委員に任ぜられる。

明治25年に一等司業、明治37年には権大教正に就く。

同年水位は53歳にて逝去す。
未だ嫡男一誠(かずのぶ)13歳の少年であったが、宮地家の家学を継承し、父の遺命により著述類を守り、在京の某私大で研鑽を
積んだ。

大正5年25歳で早逝などの経緯を経て、のちに方全宮地家が継承し現在に到る。

水位は、晩年の5年間(48歳から患い53歳で逝去)はほとんど病床に伏し呻吟された。
40歳の頃に顕微鏡を買い、昆虫や粘菌類を研究している。
門人は、門人帖などから約三千人ほどいたと言われ、矢野玄道や高島嘉右衛門も門人という。

16歳より始めた著作は真に汗牛充棟で古来等身の著という表現で形容されるが、水位の著書は十等身に及ぶと云われている。

姻戚筋にあたる嚴夫より同族の宮地直一博士に一部の資料が伝来し、高知県の図書館に宮地文庫として寄贈されたものや、
姻族に保存されていたものを含めて、大半の文献が戦災で焼失している。

そのため現在残っている著書は、戦前と戦後の教派団体刊行書のほかは、門人達が保存していたものや、親族の宮地掌典に
伝えられた僅かな文献が世に知られる程度であるという。
山内公爵が大切に所蔵保管していた水位の日記類も祝融の災いに遭う。
堅磐死去の際は棺が大音響ととも閃光を発し、その棺が軽かったと言われ、尸解したといわれているが、史料的には伝聞の類である。

    宮地水位翁著述年表

1868年慶応4年この年の四月二十一日宮地常磐大人は平田門下の倉沢義随の紹介で篤胤没後の門人として名を連ねている。
この年子息の水位は16歳初めて著作を著しておられる。


一、慶応四年(十六歳)
                            勸徴黎明録一
一、明治二年(十八歳)
                         太古史談録一
一、同 四年(廿 歳)
             天皇正統説ニ
             大學正記一
             鬼神新論一
             神母正傳一
             筆山奇談一
             玄徳経一
             幽霊叢談一
           
  大祓詞解ニ
        校訂體道通鑑増補定稿一

一、同 九年(廿五歳)
                            神仙靈符法一
             天狗叢談一
             導引法房中法訣一
             玉泉九轉論一
             還丹保身論十二
             神仙順次傳一
             神仙使魂法訣一  
             傾城文庫一

一、同 十一年(廿七歳)
                            万葉集長歌論一
             神仙靈含記一
             玄真栞一
             神仙妙術訣一
             奇火叢談一
             玄學叢籍抜粋一
             漢武内傳國字解一
             神仙得道編三
             東海少童君傳来録一
             中山玉経國字解一
             訂正大學ニ
             飛燕外國字解一
一、同 十二年(廿九歳)
                            神僊真形圖施行法一
             補史弁一
             庚申集説一
             君臣明倫編一
             神仙靈符一
             神仙大還丹編ニ
             玉條含真記一
             神仙傳道開端論一
             和漢再生叢談一
             好道意言一
             本朝小説序林一
一、同 十三年(卅歳)
                             土陽奇談一
             唐玄宗戯文一
             玉條一籤三
             徒然草尻口物語一
             玄學異名蒙引一
             蒙引神事摘要三
一、同 十六年(卅ニ歳)
                         宇内一巡隈手一
          雲笈七籤 附録十五
            〃   増補二十二
            古語拾遺傳草七
            萬流集焉 三十
一、同 十七年( 卅三歳)
                         延喜式祝詞寸先細解 一
            ?易説一
一、同 十八年(卅四歳)
                             新造病子諸體一
             叢林拾葉四
             石室遺言ニ
             虚編一
             善悪往還編一
             東海道名所道行一
             誡色記一
             土佐國貴人墓地一
             心の真柱一
             土佐海の袖貝一
             潮江村変革誌一
             谷嫩葉軍記ニ
             蟇目式正義八
             親戚名称便覧一
             本朝人物誌一
             探珍集一
             万物起源一
             月令編一
             言霊のしるべ三
             村内拾葉一
             記紀歌解一
             珍襄解縫三
             潮江村古今故事一
一、同 十九年(卅五歳)
                             密教集覧ニ
             生功傳一
             道学骨髄一
一、同 廿年 (卅六歳)
              風形集覧ニ
              祝詞備忘録三
              異境物語一
              苔廼生屋随筆三
              雨夜之伽三
              入唐人名記一
              赤縣日字録一
            苔廼生屋古今祝詞法一
一、同 廿一年(卅七歳)
               日本怪異編一
               続々和漢名数一
               観古帳一
               講餘録草稿一
               古語拾遺傳草一
               五臓文集一
               神道洗霊式一
               外通沿革記一
               ?事蒙録一
               永言集一
合計106部 212冊 
因みに水位先生手記の著述の年表は明治22年の前年迄で、大患後帰天ま16年間の年表を欠いで居る。
尚ほ上記草稿は八九分通り秘書岑正雄老人の代筆である。
土佐史談より 

<好道意言について>

春秋に富むうら若き頃より膨大な蔵書に囲まれ、昼夜を分かたず眼光紙背に徹して書林を繙き、刻苦勉励して幽に通じ諸事万般を
見通されておられた水位翁には、神道や道教玄学に関する夥しい著作論考群があるが、当時は神官と云う立場上、
自著を公の場で公表される事は一切なかった。

江戸期の国学の泰斗平田篤胤大人のように、伊吹舎蔵版として自著を出版なされておられれば、水位翁も存命中に自著を散逸する
憂き目に遭遇される事もなかったろうし、それらの資料が後学の求道する学人達の為にコンパス的方向性を指し示して戴けた分けで
有りますが、誠に残念至極なことであります。

水位翁も自著の行く末を案じられ、岑正雄と申す書の道に精通した人物を側近に置いて、真形図や霊符・禁厭集・呪文など
大切なものを除く草稿類はすべて模写させておられた。
その当時すでに水位門下生も多く、全国を通じて三千人はいたと云われている。

この明治10年頃は水位翁の最も脂ののりきった時期で、水位翁の手記によると、翁の二十歳頃から毎年少なくとも150人前後の
入門者があった。
徳島県からは特に数多の門人が入門を希望されておられる。

徳島の門人多田宗太郎氏と邂逅されたのも、明治15年5月水位翁30歳の時であります。
旅行が好きであられた水位翁は、諸国遊歴中に縁ある者達と邂逅し、その折柄翁の為人に魅せられて入門する者達が非常に
多かったと云われている。


土佐潮江天満宮神官宮地水位翁の存在を全国的に知らしめしたのが、『異境備忘録』と云う異界出入の有様を詳細に記録した
日記であります。

明治22年水位翁37歳までの備忘の記録でありますが、内容が破天荒で機微に触れる為、ある種の記録類は、
すでに生前に祝融されておられたが、一部の記録は日記の中に秘匿しておられた。
よって高段の門人達にも、その存在を口外される事はなく、異境備忘録と言う表題すら存じ上げている門弟はいなかったと
云われている。

しかし晩年水位翁と所縁の神官であろうか、齋部宿禰八潮彦なる人物が、この日記を明治33年頃に借覧しており、
この写本の原本は現在京都大学図書館に蔵書として保管されている。
明治38年3月2日に水位翁は逝去されておられるが、存命中に子息が夭折された為、同族であられる宮中掌典の宮地嚴夫大人が
水位の道統を継承される事になる。

この当時豊後の仙人河野至道と関連のある、岡山の安仁神社禰宜であった門弟太美萬彦氏が、師に願い申し出でて異境備忘録を
借覧されておられる。
この噂を聞きつけた人物が、早速岡山市西大司に所在する備前一宮の社を探り訪ねて、当主にこの資料の模写を執拗に懇願してくる。

この男の熱意や手練手管に絆されてか、拝受の折に師と交した他見厳禁の誓約を破り、あたかも魔がさしたかのように
貸し与えてしまわれた。
案の定その男は後になって太美氏との約束を破棄して昭和の初期にちゃつかり自著の附録に掲載したのが、
この備忘日記でありまして以後普く世間に知れ渡る事になる。


現在坊間に流布している宮地水位の著作文献資料の大半は、翁と同族の方全宮地嚴夫大人が生前に所縁ある人々に、
文献類を貸与寄贈されたものの一部が、何らかの形で流出したものであると云っても過言ではない。

大正7年東京帝国大学文科の講師をされていた当時32歳の宮地直一は、6月15日に逝去された嚴夫大人の葬儀を、
親族代表者の一人として参列しておられる。後に身内のものから、形見分けとして嚴夫の遺品や水位翁の草稿類の写本を
譲り受ける事になる。

直一は思案の末郷里の高知市丸ノ内に所在する、高知県立図書館に寄贈され、これらの資料は宮地文庫目録として保管される事になる。

当時の蔵書記録には、

写本『雲笈七籤』『玉含真書』『萬流集焉』『神僊大還丹編』『窮理笑談手記』『秘中秘天想通大天機』
『續和漢名数』『漢武内傳國字解』『君臣明倫編』『伝道開端編』『幽霊叢談』『異境物語』『玄道或門』『三五本国考楠武墾』
『好道意言』『神僊霊感使魂法訣』『玄真栞』『玉條一籤』『仙境叢語』『僊人下尸解法訣』『天狗叢談』『地仙還丹訣』
『和漢再生叢談』『神仙畧伝記』『異名蒙引』『神仙真形図施行法』『海宮考』『運命録上巻』『奇火叢談』『神集岳真図』
『天津詔刀私説』『神仙得道編附自著目録』『神典図説』etc

これ等の書名が寄贈本として記載されていたか゜惜しむらくは、これ等の貴重な蔵書も、昭和20年7月空襲による戦火の為
焼失してしまい、蔵書13萬冊が灰燼と化したと云われている。


東京都中野区にある臨済宗高歩院の住職大森曹玄氏が土佐潮江の宮地水位翁の著作をかなり蔵書なされておられた事は、
あまり知られていない事実であります。

「心眼」という自著の中に、入手の経緯を詳しく物しておられる。
曹玄の師に土佐出身で南学を学び武術の達人でもあった前野自錐(まえのじすい)と申される御仁がおられた。
ふとした機縁により、土佐に於いて当時宮内省掌典長であった宮地嚴夫翁と邂逅し、以後指導を受けるようになる。
この出会いにより開眼した前野氏は、禅の提唱の他、国学神典道書にも通暁通達なされておられた。

曹玄は前野氏を師と崇め齢19歳の折から弟子として師のもとに通っておられた。

この時期に、奇しくも宮地水位翁の手になる沢山の筆写本が、東都の宮地直一博士から高知県立図書館に寄贈された。
当時の図書館長が前野氏と昵懇の間柄で、これらの本の分類について前野氏に相談をもちかけられた経緯がある。
前野氏は弟子の一人である若き曹玄に、早速ノートせよと命じて、以後毎日図書館に通い二三ヶ月ほどかかって
すべてを写し取ったらしい。
後にこれらの筆写した写本文献が、仏教や武道を究める上に非常に補益になったと曹玄は述懐しておられる。

戦後の事でありますが、実はこの話には後日談がありまして、この噂を聞きつけた良からぬ連中が曹玄のもとを訪れ、
一寸借覧してこれらの資料のすべてを返さなかったらしく、曹玄は亡くなる晩年まで立腹しておられたとの事であります。
洋の東西を問わずこの手合の盗人連中が跋扈しており、平成の御世になって、徳島の小松島にある某宗家の方も盗難の被害に
あわれております。
当主は亡くなるまで、その事を甚く憂いておられました。
大盗賊のせりふではありませんが、まさに石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじであります。


水位翁30歳前後の頃は、全国から師のもとに入門を希求する門人も増え、門弟達の為に神仙道の指針を判りやすく説諭する
必要性を痛感されておられた。
そのような理由も自著を書く要因の一つとなって、明治9年〜15年にかけて、「伝道開端編」「神仙得道編」「好道意言」「玄道或問」「神仙霊含記」etc玄学を学ぶ上での基本的資料類を物されておられる。

門弟達を集めては、時折天満宮内で玄学や神道学の講義を致しておられた。
大事な所は口述筆記や自著を筆写させておられ、遠方の門人達には自著の写本類他平田学派の和本類などを貸与されておられた。

中でも好道意言は神仙の玄旨を書きとめ纏め上げたもので、道を極めて行く上で誠の大切さを力説され、道士達の求道指針と
なされておられた。
この草稿は明治12年7月3日に一気に書き上げて完成させておられる。
生前に水位翁は自著を一切上梓される事をなされなかったのであるが、これ等の貴重な著作類は奇跡的に散逸を免れ、
奇しくも後世に残され、これ等の貴重な写本類は、道を学ぶ後進の学人達に、今日も尚補益を与え続けている。
この恩恵は、戦前に方全宮地家から経由して宮地直一教授の手に渡り、後に高知県立図書館に寄贈なされた事が機縁と
なっているのであります。

昭和20年7月に空襲に遭って図書館の蔵書類は全焼してしまったが、一部の宗教家や好事家達が資料を密かに筆写し、
それらの写本類が何らかの形で外部に洩れて流出してしまったものが、現今我々の目にする水位翁の文献資料であります。

清濁混交の世の中、盗人にも三分の理と申しますか、たとえ道理に沿わずと云えども功罪が相半ばすることは、
悲しいかな世の常で否めない事実で有りましょう。


【堅磐と門人多田宗太郎】

徳島県小松島市金磯に島を所有する多田家の9代目当主・多田宗太郎は、若き頃、肺壊疽と云う難病にかかり、
医者から余命いくばくもない事を宣告され、密教行者や巷の祈祷師達に病気平癒の加持祈祷を頼むが、さっぱり効果はなく、
更に病状は悪化していった。
そのような状況の中、必死の想いで近くの中田皇大神宮に命乞いの祈念をしたが、その折、中田皇大神宮の神主であった
堅磐門下の増田氏の仲介により、堅磐が多田家を訪れ、一週間の祈祷を行い宗太郎の寿命を40年間延命したと伝えられている。

現11代当主の語る処によれば、祈祷後曽祖父は日増しに元気になって行ったとの事、水位は祈祷を済ませた後
「貴殿は何年何月何日に死ぬ」とそれとなく当主に宣告されたが、
多田宗太郎は水位の預言通りに寿命を延命し
明治25年如月5日に69歳にて逝去した

祈祷の模様は詳細に記録されて遺されており、多田家の当主が当時の資料を大切に保管していた。

宗太郎氏は文政七年十一月十六日に生まれ先祖は島を保有する幕末の篤農家で、阿波国勝浦郡小松島金磯村(徳島県小松島)の人。
幼名常太郎 世襲名助右衛門、号は石翁石竜、先代の築いた堤防を拡張金磯新田造成の基礎をつくる。

文久ニ年(1862)年同地に砲台を築き、献上郷土格に取り立てられるが、画をよくし勤皇の志に篤かった。
宗太郎は文人や画家など一風風変わりな奇人めいた人物が好きで、本人が見込んだものには、経済的援助を惜しまなかったという。

堅磐の祈祷によって救われた当主は痛く感動感銘し、宗旨も仏教から神道にかえ、
以後公私に渡り堅磐に対しての援助をおしまなかったという。
堅磐は多田家には良く足を運び、二人の間で交わされた書簡類はかなりの数になるといわれている。
風光明媚な土地柄の小松島を愛でた堅磐は多田家の招きにより、良く逗留していた。
堅磐が神代文字を綴った『鴻濛字典』などは、逗留の折に宗太郎に依頼され、一気呵成に書き上げたものと伝えられている。

また中田皇大神宮には堅磐が神代文字で書いた四文字の額字が献進されており、現在に到るもそのままの状態で飾られている。
また多田家玄関前に飾られている堅磐直筆の白色の三文字の神字の額がある。堅磐の写真や書簡短冊備忘記などは多田家に
大切に保管されていた。

水位は多田の功績を称えて神界より位階を賜り、小松島での神葬祭の折に祝詞文を奏上して遺徳を偲んだ。
その引導文の一部を以下に抜粋する。
昭和26年8月31日神仙道本部発行の『神仙道誌』によると、水位の手記には折風67年と幽界の年号で記載されているという。

【語録】

●「然るに、養生の術をさとり得て、其術を修めるとも、感一の法、並に玄胎化作の術を知らざれば、妙理に達する事を得むや。

又、妙理を覚り得るとも、国家万民の為に功を立てざれば、玄徳の至處に止る事難し。

此の故に、眞の道士は、道を得れば必ず国民の為に力を尽し、微妙の術を以て貧困の民を救い、民に災害する物を厭い除きて、
只国家の静謐なるを喜ぶ。」(好道意言)

●「然るを、小人にて私欲の為に形を錬り、気を窃み、長生久視を慕い、悪欲を逞うし、生を貪り義に背き、
虚談妄誕を吐きて人心を迷惑せしめ、又己に勝る人を悪(にく)む。
是、信(まこと)に道を奉ずるの士は、大に恥る所以なり。」(好道意言)

●「我好む所の玄旨は、長生久視を道の為に慕い、永く国家の為に尽くさんと願う身体なれば、
(中略)衛生の術を得て身を以て天道に報じ、夭札を免れて、長く神明に奉仕す。
只、利欲の為に長命を貪るにあらず。」(好道意言)

●「彼の乱世を辟(さ)け、深山幽谷に遁れて、形を錬り、気を窃み、嗜欲の為に我身の長生を祈りて、夭札を免れんと、
岩窟に入りて握固し、卸老の法を修すると雖(いえど)も、天の照覧明らかなる故に、天網を免るる事あらず、漸々に年積みて、
頭上に白髪を戴き、面色焦衰して玄道を修し得ず、己が道の行末をかくし或は虚談妄誕を書き遺し、無功にして虚しく斃る。(中略)

然るに、人身は君父国民の為に尽くす身なれば、己が身を愛し、生を養い、天の永命を祈るにあり。

そは、玄眞経の序に、国家の為に天の永命を祈り、君に忠し、親に孝し、形を養い気を保ち、身を立て道を行い、
長生を得て眞人に至る云々とあり。
眞に君親国家の為を思うなれば、長命を祈るべし。悪欲の為には、祈るべからず。是、眞の天理なり。

又いか程、欲の為に神祇に願うと雖も、天の照覧明らかなる故に、天命を終えずして反(かえっ)て夭死す。」(好道意言)

●「狡意不正の人、一たび天にかつて隠微の書を奪い得るといえども、竟に天網其身に及べり。
偖又我が神典は更なり、神仙霊妙の書に至りては、其編集せる人の霊魂其書に止まり、又、神仙の霊妙を述ぶるに至りては、
神仙の分霊の止まれる故に、好道の輩は、隠微の書を閲するに至りては、拝読の意を忘るべからず。

偖又力を尽くして編集せし物に、其人の死して後念の遺れる事は、玉襷なる小田穀山が話を聞い閲て悟るべし。

又人に道を伝え、又人に授かり、或は書を伝え、書を授かりても、軽々しくすべきものにあらず。
真人之を伝道書の誡掟となせり。
好道人深く是意を心肝に刻して、須臾の間も忘るべからず。」

●「人身は君父国恩の為に尽す身なれば、己が身を愛し生を養い、天の永命を祈るにあり。
そは、玄真経の序に、国家の為に天の永命を祈り、君に忠に親に孝に、形を養い気を保ち、身を立て道を行い、長生を得て、
而して真人に至る云々とありて、真に君親国家の為を思うなれば、長命を祈るべし。
悪欲の為には祈るべからず、是れ真の天理なり。

又、いか程悪欲の為に神祇に願うと雖も、天の照覧明らかなる故に、天命を終えず、反て夭死す。」

●「人の道たるや、執本を第一とす。
身の本は神なり。
故に、常によく神に敬事し、大空幽境にありて、黒色の玉殿沢光を放ちたる神等の坐して、幽政を掌り給う事を畏み奉りて、
生ながらに幽冥の宮舎を拝み奉る心掛けをすべし。」

●趙瑠淵、字は気臺號を意川と云いて、 陽と云える處(ところ)に生れ、少(わか)くして神仙の道を好み、
臨好道士といえる人に従いて玄書を学び、竟(つい)に見る所、聞く所、腹中に蔵(おさ)め、其道成就せむ時に至りて、
口謾の心発出し、金銭と取りて、神仙の玄旨を売(ひさ)ぐに至れり。

此に於て、臨好道士、師弟の道を絶ち、神仙の道を授けざりき。
然(しか)るに瑠淵、其後、崑崙山に遊びて、太上老君に謁し、再拝しての禮を述べ畢り、三皇内文、
及び元始天尊回天之訣を以て老君に向いて問いけるに、老君莞爾として笑いて、不道なる小輩、わが伝言を尋聞して、
世俗に售(う)らんと欲するの意ありて、栄衛五臓の内に舎(やど)れり、汝の行状の如きに至りては、大仙の忌き嫌う所、
また眞人等の大に悪(にく)む所にして、汝の如き不聖小輩の至て、好み慕う所なり。
汝、よろしく此理を合点して、深く誡慎すべしと教諭し給う。(伝道開端篇)

●夫れ人の生るるや、皆各々好む所あり。(是、天賦の質也)

其の好む所に随いて、其の道を修すれば、則ち竟に、其妙に入る。
天賦に逆い、己が質に有らざるを修むれば、則ち中道にして倦む。

故に人たる者は、天賦の質に随うべし。
其れ天賦の質たるや、各々異れり。
或は石工に生れて其の質ある者、勤めて其道を修得すれば、則ち大石を切碎するに、鐡槌を揚げ、労せずして其妙を得る也。
或は樵夫に生れて、其の質ある者、勤めて其道を修得すれば、則ち大木に登り、其枝を歩むに、恰(あたか)も鳥の如し。
其れ、其妙を得たる也。

又、其の好む所に随う者は、必ず又、其の師有り。
又、眞に玄道を好む者、又、其質有りて倦まず屈せずして道を求むれば、明師に遇いて、亦必ず得る也。
其道を信ぜざる人は、亦大抵其事を修せざる也。

好む所の善否は稟くる所を判じ、又好む所有らば、之を霊魂大小の數條に稟く。
其中、尤も修し難きは、天神玄一之道也。
此道は、萬殊の太祖にして、信を有せざる者は、近づくこと能わず。
又、石工樵夫等に至りては、信を有せずと雖(いえど)も、又妙を得る者有るは、是則ち修錬に有り。
玄一の道は、信と修とにあるのみ。(玄道或問)

汝に出るものは、皆汝に帰る

●誠心は幸を得るの基にして、悪意は殃(わざわい)を招くの礎なり。
夫れ神に事(つか)うるの道は、至誠を本と為す。
至誠其道を尽せば、斯れ神之をうく。
善悪の報は、影の形に随うが如し。
汝に出るものは、皆汝に帰る。
幽冥の照覧、豈(あに)恐れざる可んや。

神通力(じんづうりき)

神通力について水位先生は「神通は信と不信にあり」と申されておられます。
信とは誠のことで、道家では一心とも真一とも称している。

宮中掌典で神仙研究家の宮地嚴夫翁と接点のあった豊後の仙人・河野久は、修業の功により、地仙の山中照道寿真のご指導を受け
後に至道の名を授かっておられますが、至道とは一心の旨であります。

薩摩の西郷隆盛翁は常日頃から、天の道とは誠を貫くことだ。人など相手にせず、天を相手にして、我まことの足らぬことを反省致せと
申されておられますが、古来より神仙の道とは、この「まこと」なる心に道を踏まえ実践して行くことでありまして、「まこと」とは二心の無きことで、
一心不乱の意でもあります。

何事に対しても二心無きこと、これこそ正しき神仙界出入への登竜門であり堂奥でありまして、人は常に求道に二心なければ清潔であります。
この清らなる流れこそが即ち神仙の道なのであります。 

境地が高まって行けば自ずと何事も  自由自在になしうるようになるし、幽なる導きも素直に受け取ることも出来る。
実にこれこそ が誠の神通力の証なのであります。

幽冥玄府の其の主宰の計らひに於いては種々の厳則ありて、深秘なる幽事なれば猥りに天機を茲に漏らし難し
そは幽冥中に於いて最も秘事中の秘事なればなり。

【水位先生の返本霊唱とは】

眞一を守る天眞秘辞の秘め事の一つであります。

仙経に「一(イツ)ヲ守リ眞ヲ存スレバ乃チ能ク神ニ通ズ」
また「能ク一ヲ知レバ乃萬事畢ルモノ也」などゝ微言して あるが如く、至道の極致とは眞を守ること乃ち守一に存するのであります。

因みに豊後国東郡安崎浦在の永松某こと河野久は後に養子に入り、国学を学び霊夢により明治8年3月1日より神仙の道に志しているが、
吉野の深山中に於いて異人と邂逅し、その異人より至道の名を賜わっておられる。
名は体を現すが如く至道の二文字は眞一を守ること。
乃ち守一に存するの意であります。
その眞一とは誠のことでありまして、、この一を体得することが乃ち神仙道の殿堂に入る証となるものであります。

眞一を知るものは俗事に染移せずして、恒に其の道を守り、恒に感を以って眞を知り、妙を以って誠を進め
素理に通じて以って符節を天に合し眞一を具足し、天一に契合し、徳を充して萬境を貫き、千変に奪はれず逆境に入りて自在也。

然りと雖も天一を守りて我を失わず、唯一に向ひて楽しむ。
我々の本魂は宇宙大元霊の分魂(ワケミタマ)であるが、此の宇宙大元霊を神仙道では一と謂ひ又眞一とも玄一とも謂ふ。

我が本魂も眞一の本性を有し、玄一の分であるから其の本性の眞一を守り、眞一を想へば其の本源の眞一に帰る。
之乃ち守一の玄理である。
此の眞一の働用こそが、すべて宇宙を感動し神に通じ霊胎を感結する本因となるので、道力長養の根行も亦た茲に存する理であります。

【神仙の書とは何か】

玄道隠微の書であると水位先生は申されている。
さらに師仙は次のように仰せられる。我れ仙人の位に進まむとて玄道を学び、精神にして
其位置に至れる人を得れば、必ず神仙の書を授くべし。
また其の人にあらざる時は、之を洩らし伝ふるとも其法行はれず、また神祇の悪み給ひて必ず其の禍をうけむ。
また其人を得るときは、天神地祇に祈誓して後其法を授けむ。
また其の法伝ふべき人を得て伝へざる時は、又  其禍を受けるに至る。軽々しく伝ふべき物にあらず。

汝吾道を授かり得むと思はゞ、玄道隠微の玄書数多あれば、順次を立てて学ぶべし。
其の書を学び得て、仙籍の理ほゞ覚り得るに至りては、其時こそ疑なく授けむと論(さと)せし也。こ
れ然る事にて如比(かくのごとく)あるべきぞ、神仙隠微の道にはありける。

我が道は始にも云へるが如く、天真の信を守り倫を明らかにして、勲功を立て、長へに天地の 間にありて、天神に仕へ、
国恩に答へむとするの道なり。

故に彼の偽聖、偽仙の邪説を守りて 妄想の附会説を主張し、鬼魅怪談を旨とし
尾に鰭を添へて生民の耳目を塗り、心魂を 迷惑せしむる輩と同視する事なかれ。

異端の偽仙に幻惑され、修道の眼目を錯誤せる求道士の如何に夥しいことであろうか。
畢竟真偽を弁別すべき道眼の未熟に基づくものと云、真に慨嘆に堪へぬ次第である。
道とは、学び習して己を損し、損して無に 至るものである。神仙の道を志す者は
誠実に身を処し、他人に対しても慈悲深く 生きていかねばなりません。


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