宮地 嚴夫

(みやぢ いづお)弘化4年9月3日(1847年10月11日) - 大正7年6月15日(1918年6月15日))は近代の神道家である。

土佐国高知に手嶋増魚の三男として生まれた。
幼名を竹馬、後に功(いさを)と呼び、太左衛門と改め、更に嚴夫と改名した。
道号を東嶽あるいは方全と称す。

慶応3年(1867年)に提出した平田篤胤の門人姓名録に、「土佐国長岡郡左右山村住、手嶋太左衛門改宮地嚴夫 掌典 好読道蔵」と
記されていることから、嚴夫は二十歳の頃に平田門下に入門し、国学を学び、すでに神仙思想に興味をしめしていたことがわかる。

嚴夫は長じて十七歳にして、土佐藩に仕官し傍ら藩校致道館で学んだ。
この間、城内八幡宮の神官・宮地伊勢守重岑に其の人物を見込まれて養子となり宮地姓を継いだが、この伊勢守の宮地家が
宮地堅磐の潮江宮地家とは同族で、其の祖先は同じく宮地若左衛門より発している。

ちなみに伊予国大洲(現、愛媛県)の神道家矢野玄道は水位と親交があったが、後に嚴夫は『矢野玄道翁述懐録』の文章の中に
おいて、『道蔵』(雲笈七籤)入手についての示唆を玄道から受けたことを述べている。

明治5年教部省に入り各神社を歴任後1877年(明治10年)以降は神宮教の教導職として活動する。
又嚴夫は明治十年六月廿一日より神宮教院の命令によって、高知県教会の在勤を申し付けられた。
高知に帰省するや、潮江天満宮の宮地父子は勿論の事、交友知己と相会して神宮布教の事につき協議を重ね同志である大久保千尋、
大久保時省、宮地堅磐、宮地左膳、原孝徳、久武猛馬、淺川範明など地元の神官達の協力もあって、伊勢から皇大神宮を
奉迎してからは、土佐の津々浦々奥山深き土地に到るまで熱心に布教した甲斐もあり、神の道は到る処に布教され、
盛観を呈した次第で、明治15年久邇宮来国の折には、その慰労を称えられ辞令の下に品を嚴夫は賜った。
土佐の神官達の熱血なる活動と奮闘は遂に高知教会の設立を見、且つ伊勢の神風講が盛大に普く土佐全体に浸透普及した其の功績は
嚴夫にとって特筆大書すべき要項であったと語られている。

1888年(明治21年)宮内省に入り、明治23年には雅楽部長となり又式部職掌典として、宮中の祭祀の職に在った。
明治天皇の信任も厚く、その当時の国家的に重要な神事卜事は嚴夫の手を経たものであるともいう。

明治20年頃からライフワークでもあった『本朝神仙記傳』の稿を書き進めた。

1908年(明治41年)には雅楽部長も兼ねているが1913年(大正2年)には大礼使事務官に任じられ、大正天皇の即位式に携わった。
大正6年暮れ以来腎臓病に罹り静養中であったが、翌年の1918年(大正7年)6月には特旨を以って位一級を進められ従四位に叙し
式部官に任じられるが、この月の15日に逝去した。

大正7年6月19日葬儀の日、勅使を差し遣わされ幣帛を賜い祭祀料を賜う。
葬儀は青山斎場に於いて宮地直一が執り行い会葬者は千余名あったが、一部で祭典規模の簡素さが指摘されたという。

嚴夫の交遊範囲は多岐に亘り、高崎正風、阪正臣、神田息胤、国学者の平田銕胤、宮地常磐・堅磐父子、矢野玄道、角田忠行、
井上頼国、神道学者宮地直一、民俗学者の柳田國男や小谷部全一郎豊後の仙人河野至道や国文学者物集高見とも交流があった。
軍人の乃木希典伯爵との親交は篤く互いに行き来していたと言う。
日本画家の富岡鉄斎も知遇を得られた方で、翁が枚岡神社の宮司となられたのは嚴夫の推挙による。
またその縁により直接玄学の指導を受け神仙道を修められた。

國學院大學所蔵の河野省三文庫蔵書本の中に嚴夫自筆の日記『玉の舎随筆』が含まれており、岡部某の依頼希望により、
一部抜粋して謄写贈呈すと和とじの筆写本の末尾に嚴夫が直筆で記してある。
日付は大正6年6月10日と記載されており、この年から約1年後の大正7年6月15日、嚴夫は72歳の高齢を以って道山に帰った。

生前の嚴夫の没蹤跡ぶりは全く堂に入ったもので、明治の仙人河野至道なども、一時期嚴夫の寓居に寄寓していた。
当時の社交界に於ける交流は掌典職としての立場上に於ける交友関係で、普く広く交際をなされておられたようである。
それでも宮中掌典職の師として星野輝興や佐伯有義、また霧島神宮宮司卜部慎一などは、数少ない指導をうけた方々であったと
いうことであります。
ただ、旧帝大や地方における講演会などにおいては、1千人以上の聴衆を集める人気ぶりで一世を風靡したといわれている。
私的な側面からも先生は学問に長じている傍ら、大変人を馴致するに妙を得ておられたので、一度先生の謦咳に接し語を交えた
ものは、必ず其の徳に敬服し、其の威に魅了されたと言う。
よって間接的潜在的門人という意味合いから申せば、影響を受けた者はかなりの数にのぼるだろうと思われる。

嚴夫は宮地常磐・宮地堅磐父子同様に神道の奥義を体得体現なされた。
宮地水位の家伝は、子息一誠に托されたが、夭折され、のち戦災のためすべて焼失したといわれる。
親族の嚴夫が預かる文献類は、没後神奈川の寒川神社宮司でもあった長男の威夫(碧水)が密封したという。
ちなみに親族の宮地直一が預かる文献も図書館に寄贈されたが、これも戦災のため焼失している。
嚴夫は、弟子の星野に
「自分こそは平田学の正系で、しかも唯一人の継承者と自認している。汝亦吾意を體せよ」
という言葉を残したという。

<宮地嚴夫掌典卒去の記事

宮内省式部職掌典部主席掌典正五位勲四等宮地嚴夫氏は昨年(大正六年)暮以来
腎臓病に罹り?町永田町ニー九の自宅にて静養中の聴六月十五日午前病革まり
危篤の趣天処に達するや特旨を以って位一級を進められ従四位に叙し、式部官に任じ高等官ニ等(年俸五百圓下賜)に叙せられたり。

氏は土佐藩士手嶋増魚三男にて弘化三年に生まれ本年七十三歳、先代 宮地重岑の養子となり長じて平田篤胤・伊藤祐命等に師事し
国学を研究し、明治五年教部省に入りしを始に神宮司廳 神宮奉斎祭会等に奉職し、宮内式部職掌典部に入りしは、明治廿三年にして
雅楽部長となり以来今日に及べり。掌典部切ての故実学者にして従来の宮内省に於ける各儀式は概ね氏の手に作られ、
就中特記すべきは英照皇太后 明治天皇 照憲皇太后の大葬并に今陛下即位御大禮の御儀式が凡て氏より案出されたる事多し。

氏は傍ら神仙傳を研究し、其の著述は有名なり。
掌典部が氏を喪ふは全くその生き字引を失ふものなりと称せられる。又本会の協賛たりし
六月十九日葬儀の日、勅使侍従清水谷伯爵を差し遣わし幣帛を賜ひ、又祭資料千五百圓を賜ふ。
葬儀は青山斎場に於いて行ひ、会葬者千餘名あり。本会宮西専務幹事弔詞を朗読したり。
   大正七年 六月廿五日号より 

<神仙得道之法>

神仙得道の法は必ずしも一に非ず。
還丹修練の効に因て之れを得るものあり。
霊芝仙薬を服するに因って之れを得るものあり。
積善隠徳の功に因て之れを得るものあり。
図を佩び符を服するに因て之れを得るものあり。
精想純想に因て之れを得るものあり。
霊章秘文を誦するに因て之れを得るものあり。
此他尚ほ種々ありと雖もそは唯分け入る門を異にするに過ぎざるのみにて要するに至誠の極り神明の感応を得るの結果に外ならず。
而して其孰れの門より入りたるに拘はらず、道を得るものは、修練の力とか、霊薬の力とか其他修むる所の何かの力によりて、
此凡胎の凡骨を変化し、所謂換骨奪體して、神仙の霊胎となるに非ざれば道は得られざるものと知るべし。

<本朝神仙記傳について>

『本朝神仙記傳』は昭和三年師走二十八日に上之巻、翌昭和四年文月一日に下之巻を菊版箱入で二冊大阪市西区北堀江通りに
当時所在地のあった刊行会より出版されている。
編集人は宮地嚴夫門下、土佐在住の神官大久保千濤で姻戚筋の宮地直一博士や数人の方が編集に携わっておられた。
上之巻の序文は子息である寒川神社宮司宮地威夫が執筆され、昭和三年霜月三日に記された前書きによると、

「父が大正七年水無月十五日に永眠され、早十年の年月が流れました。
遺族の責務として、父が生前三十余年の間、全精力を傾注し、最全の努力とあらゆる犠牲とを以って編纂した、
父の心血の結晶の稿本を、父生前御親交を忝うして戴いた諸彦に謹呈致したいと思っておりまして、此の度の時節の到来により、
出版の運びとなりました」

と申し述べておられる。嚴夫は生前に自著を数冊上梓されておられる。
国光社や高知堂などから「祭天古俗説辧義」「天佑記聞」「日本國家學談」etc大正三年には小冊子にて「世界太古傳実話」を
出版するも冊数が数十冊にも及ぶため途中で未完に終っている。

当時の会報誌、神社協会雑誌や皇典講究所講演雑誌などにも、かなりの論考を寄稿されておられる。
又みずからが雑誌の編集をなされ「誠」と言う会報を編纂されておられる。
この雑誌の主旨を主幹でもある嚴夫は次のように述べておられる。
「誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なりとは、古人の格言なり。
否古人之を言はざるも天地間の実際正に斯くの如し。
言て其実際に適中せる、之を格言とは云ふなり。
夫誠の言たる、真実無妄なるの謂ひなり。
是を以て惟神の大道とは、此誠を実行するの道を云ふなり。
約言すれば神道は即ち誠なり。誠は即ち神道なり。
道家は此誠を得るを以て之を徳と称し、儒生は此誠を修むるを以て、之を仁と称し、佛者は此誠を認むるを以て之を覚と称し、
耶蘇徒は、此誠を行ふを以て、之を愛と称す。
見るべし誠は諸道の淵源、各教の本拠たることを、嗚呼誠の意義実に広大無辺なりと云ふべし。誠の意義既に斯くの如し。
其惟神の大道の、諸道を包含せる、世界の公道たること、亦知るべきのみ」と。

嚴夫が神仙傳の構想を抱き執筆する切っ掛けになったのは、伊予の神道家矢野玄道翁に邂逅した事にありと言う。

玄道は13歳の年、痘を病み23〜24歳にかけさらに悪化医者にすら見離される状態となったが、
道家の書(支那の道経・真誥・参同契・同箋解・山堂肆考・雲笈七籤・枕中記)をひもといて抜書し自家薬籠中の物とされ、
後年蒲柳の質の私が長命出来たのは、病気を克服する為に道家の書を学び実践したが故と回想されておられる。
後に嚴夫は玄道の「皇国神仙記」正続七巻の稿本を借覧し、自著本朝神仙記傳を書くにあたり大いに参考に資されておられる。

明治大帝のご信任も篤かった忠臣乃木稀典伯爵は、日露戦争後は天皇のお計らいにより宮内省御用掛けに配属される。
この時期に宮中掌典職の嚴夫と邂逅し同気相親しむ間柄となり、以後港区に所在した乃木邸に嚴夫は度々訪問している。
乃木は嚴夫が神仙傳の中の人物論考を書き上げる度に借覧し、精読することを楽しみにしていたという。
時には嚴夫の寓居にも訪問され、神仙談に興じられたということである。

嚴夫の主著である本朝神仙記傳は、構想から完成をみるまでに約30年の歳月を費やしている。
明治20年頃から稿を推進め大正の初年にようやく脱稿をしているが、生前には上梓される事はなく、
死後十年を経過し昭和3年に出版された。
上之巻に55人下之巻には40人の神代から明治年間までに実在する仙人譚を詳細に考察し論じられた。
下之巻には嚴夫の手になる自修鎮魂法秘訣入門や君子不死之考などの貴重な論考も掲載している。
翌年二冊目を上梓後は、戦後になっても復刊再版される事もなく幻の書と呼ばれた。
平成13年に宮地家から、改定復刻版が出版された。

<方全先生と霧島神境について>

日向国と大隅の県境に屹立する霧島山には隠里なるものがあり、その里に仙人仙女と思しい異界のものが往来するとの古くからの
言伝えが遺されているが、天保ニ年薩摩の平田門下の一人、門弟八田知紀が郷里の知人から、次なる情報を得た。

なんでも二昔も前の話であるが里の住人の杣(そまびと)仲間の一人が山中で迷路に迷い込み、異境と思しき隠れ里に誘われて、
以後は何度もその場所に出入りしたと言う事であります。
すでに男はその仕事を辞めて華林寺で暫らく寺住まいしていたが、五年ばかり前に家に帰ったとの噂を耳にした知紀は、
早速当地を尋ねて訪れ、その模様を具に聞き書きして記録した「霧嶋山幽境真語」なる奇談を書き表す事によって
隠れ里の存在が明るみになった。
師である篤胤は、弟子のこの神秘な記録書を甚く愛でて、書物に序文を載せておられる。

後にこの資料を参考に引用し、嚴夫は自著本朝神仙記傳の中において霧島山の神境に住む薩摩藩士の平瀬勘兵衛こと雲居官蔵の事や、この山に住む女仙達の事などを持論をふまえて詳解し、異境が存在し実在する事を論じておられる。
嚴夫は『三石山仙翁並女仙』の論考の中で、奇しくも我が国と漢土に存在すると思われる隠れ里(神境)の所在を
二十数箇所羅列されておられるが、其の中の一つとして霧島山の名を挙げておられる。

嚴夫と霧島山との因縁は浅からず、刎頚の友の一人高崎正風の師が薩摩藩士八田知紀で、霧島山幽境の神秘の伝を師匠から
聞かされており、門外不出の伝を後に筆写なされ秘匿されておられる。

又明治9年には長澤左仲の紹介で豊後の仙人河野久こと至道が、嚴夫の寓居を訪問しており、この後何度も足を運んでおられるが、
すでに、この年の七夕の日に奇しくも至道は雲居官蔵と邂逅致しており、後に口授を受けておられる。
嚴夫は至道から談話の折に聞かされた霧島山神境の秘め事や、官蔵の伝を聞かされ、備忘の(玉の舎)日記や別紙に
雲居霊寿真人相伝秘事と記載されて、密かに書き留めてまとめておられる。

明治34年11月7日福岡県の宗像神社(現在宗像大社)は官幣大社に列せられ、嚴夫は勅使として出向しておられる。
この折に神官の卜部慎一と邂逅し、縁あって慎一は数少ない弟子の一人となる。

この後拝命を受けて数十年後に昭和7年から昭和10年にかけて霧島神宮の宮司になる。

大正7年にすでに嚴夫は逝去しているが、昭和10年奇しき計らいにより子息の一人宮地威夫(後に南洋神社・寒川神社宮司歴任)が
禰宜として赴任してくる。
神宮に奉仕された頃は齢は50代に達しておられたが、この地に来てからは度々神感に接し以来極めて霊感的になられた趣である。
このご奉仕の折に体験なされた霧島神宮に於ける数々の不思議な霊異については、清水宗徳著「宮地神仙道玄義」の中に
掲載されている。

霧島神宮宮司の卜部氏は、赴任して来られた方全先生の子息威夫氏と邂逅の折、学者肌のその人柄と風貌に魅せられ好感を持たれた。
心霊学にも造詣が深かった宮司は話もはずみ、直感的に威夫のスビリチュアルな感性を見抜かれたと云われている。
早速後日時期をみて当神宮の世話役でもあった神道霊学者瑞垣鈴鳴(みずがきれいめい)を紹介される。

鈴鳴は福岡県遠賀郡(現在北九州市)折尾の地で、神皇典綜合研究所なる神道霊学機関を主宰しており、
月刊の「神皇」なる冊子なども頒布して思想啓蒙されておられた。
中臣神道や橘家神道特に古神道に関する造詣は深く数多の著作があり、本名を五條橘と申される。
神道霊学を代々伝えるお家柄の方で、著書には
『神傳霊学乃指針』『古義鎮魂傳』『言霊神詳奥傳』『神仙太古神法奥義』『神事秘法類苑』『神仙霊傳幽躰結成玄義』
『御幣謹修秘傳』『鳴弦秘傳』『憑霊祓除抄』『死返神気傳』『玉鉾述頌』『神體勧請之厳秘解義』etcがある。
また公開未公開のものを含めると数十冊の書物が伝わっていると聞く。
鈴鳴より薫陶を受けたと申される古老の話によれば、福岡には瑞垣大人の末孫の方が現在もおられ、
当時は奥義を含め大切な道書類は一切公開される事もなく、高弟達に対しては師自らが直接巻物に傳法を書き記して
一子相伝並びに口授されておられたとの事であります。

残念ながら晩年の消息は不明との事でありまして、生きながらにして霧島山の神境に入られたらしいとの噂であります。
威夫は霧島の地に来て鈴鳴との邂逅によって更に霊性が煥発されたのではないだろうかと推測致す次第であります。

<五靈凝結法>

修錬第一の要務

方全曰く
元来人の五臓中に各主たるものが有りて 先づ腎臓の主たるを精と云ひ、心臓に主たるを神と云ひ、肝臓に主たるを魂と云ひ
肺臓に主たるを魄と云ひ、脾臓に主たるを意と云ひて所謂五臓の主神なるが、彼の天に在りては、風 火 金 水 土 の神の各五元に
主とましまして、天地の造化を賛成し給ふが如く、此の精神魂魄意の五霊各五臓の内に在りて、其の五元を主宰しつつも、
亦各五官に寓し、是を外に漏らして内に蓄ふること能はず、其の心内の元陽耗散して遂に死に至らしむ。

其は先づ精は聞く事を主りて耳より漏れ、神は味ふ事を主りて舌より漏れ、魂は視る事を主りて眼より漏れ、魄は嗅く事を主りて鼻より漏れ、
意は触るる事を主りて全体より漏れて、心内の元陽を耗散す。
之を精水神火魂魄金意土と云ひて、彼の五行を以て云はむに、土は中央に位し土用とて四季ともに功用を行ふものにして
最も至要なるものなるが、人の内部五臓の妙用に於けるも亦之れに異ならず、其の精水神火魂木魄金の中央なる意土の意念を注ぎて
思を凝せば、自然に外の四物は其の意念の中央に凝聚結合して一物となり、其の意念の思想に応じて種々の妙用を現すものなり。

故に玄学家は是を四家を和合すとも、五行を攅簇するとも 云ひて、修錬第一の要務とせり。

何となれば此の時に当たりて若し意を散ずる時は忽ち各我本位に帰りて、意土に聚らず其の思存する所の物消滅して、
其の修錬の道を失へはなり。

 

 

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