清浄気玉利仙全君

清浄気玉利仙全君さまについて、紀州の皇漢方医島田幸安は次のように語られておられる。

九州の赤山に鎮座坐ます此の仙君様は、もと仁徳天皇の四十一年癸丑産にして、
其の後人間に出で候、御名を藤原平次と申してよき官人にてありけるが、
医師の神の擁護に依て道を得給ふて仙境に入り 當嘉永五壬子迄齢千五百歳に成られ申候。
清浄利仙君の御姿は頭は惣髪にて長く打垂れ黒き頭巾を着し、(頭巾は今山伏の用る如き物かと問ひしに
夫より大きくして頭のはまる程なりと云ふ)口髭は白く長く延びたり、身に白き指貫をはき前にて紐を結べり、上には赤き袍を着す。
袍は打裂羽織の如く但両腋下と後とを裂たり、前には胸紐長く結び下げ足には木沓を履き
手に赤白二色の鳥羽を合わせたる梶の葉の如き團扇を持ち、床机に腰を懸け給へり。
傍らに三人の眷属が付随されておられる。

清水先師曰、「清浄気玉利仙全君は、宮地神仙道の師仙と仰ぎ奉る六神真中の首座に坐す大仙に坐し、
水位真人が始めて神集嶽に入り給ひしは固より青真小童君少名彦那神の御幽許によるものなりと雖も、
直接には清浄気玉利仙全君より川丹先生(玄丹大霊寿真)を使者として差遣はされ水位真人を伴はせ給ひしなり。

斯く清浄気玉利仙全君は宮地神仙道とは特殊密接の関係を有し、神仙道道士の修真得道には格別の関心をもたせ給ふ神仙たり。
利仙全君は常には霧島山(赤山)の幽境を治めして多数の霊仙達を啓導せられつゝあるも、又 神集嶽神界の尊官として玄都に来往せさせ給ひ、
人間界に在る道士の得道すべき者を神仙界に取り次ぎ給ふ謂ゆる真人への登竜門を掌る仙職に坐し、
水位先生も幽界記中に於いて「水位モ此ノ両仙
(清浄気玉利仙全君及び杉山清定君)ノ御導ニヨリテ神界ニ至ルヲ得タリ」と記録し居らるゝ如く、修真求道を志向する道士たる者の格別の
御結縁を希求すべき師仙に坐すなり。」

修真求道を志向する 道士たる者の格別の結縁を希求すべき師仙に坐すなり。

 

 

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