神仙口傳密訣
仙経甚だ多しと雖も、其説殆ど枝葉のみ。其根基至って簡にして至って明。
至って要にして至って秘。故に好道の士、若し此の根基を行はば枝葉は
坐ながら致すべきのみ。
而して仙経多くは秘して之を著はさず、
只多くは 他の小法を説く。
蓋し其道禅法に似て観想に係わる。
故に道蔵に曰、感想の秘術五百年に一出、傳好道仙官至人傳。
之歃血盟委質為出云々と。蓋し略言すれば、聖胎の出る、即ち
一心の凝結せしむるにあり。
心魂既に良能く凝結する時は、肉体終わりに散消す。
於此不労不死 神変万化の道極まる。
之を神仙と云ふ也。
而て、其の心魂をして凝結せしむるの行法、仙経に於いては、鉛汞龍虎沐浴火候等、
其の説累々として目に充ち、耳に塞がると雖も、如比煩はしきを要せざる也。
只克く極めて精神を鎮静し、心魂を安正し、昼夜慾心を去り、貪心を断ち、心妄念無く眼界に馳すことなく、耳聞く所無く
鼻嗅ぐ所無く、俗を離れて静所につくを良しとす。
而て、常に力を臍下丹田に入れ、専ら嬰児結するときは、或いは目より、或いは耳より、或いは鼻より、躍然として出入す。
如此して嬰児堅結するときは能く変化す。於此去来我意に従うべし。
以上即ち是れ神仙口傳密訣、仙経多しと雖も此の秘法を泄漏するもの少なし。
猶疑ふあらば去て、仙経を見るべし。
然るを我れ既に之を明記す。好道の士、幸ひに此の傳を得ば須らく秘重して寶持せよ矣。
神仙隠微の書について
水位師仙は次のように申される。我れ仙人の位に進まむとて玄道を学び
その精神に於いて其の位置に至れる人を得れば、必ず授くべし。
また其の人にあらざる時は、之を洩らし伝ふるとも其の法行はれず。
また神祇の悪み給ひて必ず其の禍をうけむ。
また其の人を得るときは、天神地祇に祈誓して後其の法を授けむ。
また其の伝ふべき人を得て伝へざる時は、又其禍を受くるに至る。
軽々しく伝ふるべき物にはあらず。汝吾道を授かり得むと思はゞ、玄道隠微の玄書数多あれば、順次を立てゝ学ぶべし。
其書を学び得て、仙籍の理ほゞ覚り得るに至りては、其時こそ疑なく授けむと論(さと)
せし也。
こは然る事にて如比(かくのごとく)あるべきぞ、神仙隠微の道にはありける。
又水位師仙は、霊感の法十二術の中に於いて、霊感の法は感想を以て本と為す。
天地の間は感と應とのみ云々と。
又師仙は、感想の道に達する者は、己の魂の霊妙なることを知るなり。
又曰く、物に應ずる之を霊と謂ふ。
霊妙の枢智を発する之を神と謂ふ。形を離れて遠く往く之を遊魂と謂ふなり。
又曰く、人心一念の誠至りて天地を動かし鬼神を驚かす。
古今感通のこと勝げて計ふ可からざるなり。故に念なる者は感想の一端なり。
神仙伝来の霊感の法は皆感想の二字に基づく。
而して入り口甚だしと雖も、神仙の極秘にして、仙名ある者に非ざれば軽授す可からざるなりと申しておられます。
○正直の頭に神宿る。正しき神は正しき人に憑られる。
神仙界所伝秘詞の中には、或いは脱字或いは処々に不要の衍字などを設けありて
別に口訣によらずんば正伝の秘詞を得る能はざるが如き用意の下に記録されている。
これが仙家の玄律たり。
正神界の神法道術は強いて授かったり秘かに盗写しても
何にもなるものではない。
それぞれの司掌神々の感応が無ければ意味を成さぬ。
神界と人間界とを繋ぐそれによって法は睡りもするし醒めもする神人感合の目標は
必ずしも霊眼を開くとか、天耳通を得るとか、その他ともかくも世間で奇異とするやう
なことにおくべきでない。むしろ理想的に云へば顕の帰神よりも幽の帰神であって、
表立って何の奇もなくても、自然に正神界の気線に通じ、いよいよの場合に各自に
アンテナのやうな働きが我知れず出来ることが主眼である。
唯幽冥界に伴って行けるのは唯在世中に於いて行積せる数々の善事悪事の負荷のみであって、
其の他は如何なる珍奇な一物でも、絶対に持って行く事は出来ない。
自己とは仮和合の現身のことであり、この現身に対する妄執愛着を捨て切る事が
本物の自分に再生する。
玄家では、
丹書万巻一を守るに如かず。
一を知れば万事畢るもの也
一を守り真を存して乃ち能く神に通ず
一に非れば救はれず
一に非れば成らず
一を守りて恬淡なれよ
真一が確立されてこそ道義をたち
万神万霊に感応する霊威力と
邪鬼妖霊を払攘する事が可能になる
因みに安鎮秘詞の奏唱は、単に慰霊安鎮に止まらず、幽魂の罪過を消滅し
其の霊格を向上せしむる也。更に祖霊の霊格向上は、其の後身たる自己の
霊格向上と重大なる関連ありて、この深秘とも大深秘なる幽理に案外無頓着
なる修道士の多きに一驚する。
|
|