宮地神仙道と気線 前野自錘先生

 

私は、またと遭い難いような立派な師の教えを受けることができて、いわゆる師匠運が、善かったと感謝しています。
しかも、その人々はいずれも一流の達人でありながら、不思議に世の表には出られず、いわゆる舞台裏にいた人々でした。
その中で道の上で一番は
じめに教えを受けたのは前野自錘先生でしたが、この人も世塵にまみれ、ついに世表には出なかった一人です。

先生は、土佐の名門に生まれ、幼少の頃から南学を学んだそうです。
十四才の時、「知行合一」ということが解からず苦しむうちに、そういう問題は禅僧に聴けといわれて、
土佐楊貴山の新羅実禅師をたずねたということです。

海南中学の寮の押入れの中に隠れて坐禅をしたが、
線香の落ちる音がポタリと驚くほど大きく感じられたというような、当時の思い出話も聞かされました。

長じて早稲田法律専門学校ーいまの早稲田大学の前身ーに学ばれたのですが、
その頃、市ヶ谷の道林寺にいた南天棒に参じています。
南天棒のあとを追い廻して、ずい分諸処へ行ったらしく、
松島の瑞巌寺へも行って師弟二人で毎晩徳利ころがしをやったさうです。

南天棒から印可を許されようとした時、私はそんなものは要りませぬ、釈尊から直々に貰います。といって断ったと申します。

先生は、その後、更に法兄の見性宗般老師に就いております。
それは南天棒は簿徳だというので、宗般老師の徳分を慕われ、それにあやかろうとされたためです。
見性宗般という人は、山本玄峰老師の師に当たります。
ちなみに先生は玄峰老師とは土佐の雪渓寺時代からの仲のいい友達だったようです。

先生は早稲田を出て、営林署へ入ったのですが、これは、山の中で独り修行するのに好都合だという理由からです。
いつの頃からか宮内省の掌典長だった宮地厳夫という方ーこの人には『本朝神仙記傳』の名著がありますーに就いて、
国学、神道、仙術などを学ばれました。

少年の頃、実禅禅師から特殊の呼吸法や練身術などを教えられていましたが、
それが実は仙人の修行法であったということを、後年、宮地氏に学ぶことによって知ったという話です。

この実禅禅師は小田原の宙山禅師の法嗣で、例の邃翁和尚の系統でしたから、
邃翁伝うるところの胎息などを得ていたものと見えます。

私が前野先生の許に参じたのは唄の文句ではありませんが、十九の春でした。
そのきっかけはこうです。
私は、今でいうアルバイトをしながら学校に通っていた苦学生でしたが、
年の暮れになって特別扱いの年賀状を区分けする仕事があったのです。

泊り込みですから、夜分に退屈まぎれにふと手もとの郵便物中から雑誌を見たのでした。
ところがそれが偶然にも前野先生のところで発行された『禅と道術』という雑誌だったのです。
子供の頃から何とはなしに禅にあこがれのようなものをもっていた私は、早速飛び込んで行ったわけです。
その頃は前野先生は役人をやめて、『太玄洞精舎』
というのを建てて、専ら禅の指導に当たっておられたのでした。

さて、その年を超えて正月、私はひどい風邪と腹痛で、高い熱を出してしまったのです。
ある晩、表の戸をしきりに鋸で切る者がいるのです。
起き出して木剣を振り上げ、誰だ!!と一喝しました。
戸を開けてみると外には誰もいません。戸を閉めるとザマ見ろとばかり雨戸に小便をしかけて嘲ける。
憤慨して立ち上がる、そんなことを繰り返しているうちに、何も解からなくなってしまいました。
高熱に浮かされて、凩の音か何かを泥棒と錯覚したのでしょう。

気がついたらもう三月になっていました。二月一杯昏々として過ごしたわけです。
母はこの私の大病(実はチフスでした)を非常に心配して、後で聞かされたことですが、
「是非この子を助けて貰いたい、代わりに私の生命はさし出します」と、深川の不動尊に願をかけて、
寒中に毎夜、水垢離をとったということです。

私が三月下旬に、ようやく癒えて床の上で坐れるようになった頃、母はポックリ死んでしまいました。
母は私が兼ねて満州に渡って馬賊になりたいと、夢のようなことを口癖にしていたのには首をふっていましたが、
死際になって一言「行ってもいいよ」と許してくれました。

まあ後に満州事変が起こったとき、従軍記者になって向うへ行きましたが、馬賊の夢は実現されなかったのです。
母を失った頃から、私の乱暴狼藉がはじまるのですが、しかし一方には私には、
いつも見守っていて下さる前野先生という立派な師がありましたので、坐りには毎晩通いつづけました。

三年ばかりは降っても照っても、必ず行きました。

先生は禅の提唱者の外、国学、神典、道書などを講じられました。
抱朴子・黄庭経などという道書や、それから老子の講義もうかがいました。

酒は量なしの方で、参禅が済むときっと台所で独酌をやられる。
道場と居室とは別棟でしたが、台所の側を通って帰る私の足音を聞きとめられて、
「大森さんか、まあ入りなさい、寒いき一つやらんかね」というわけです。

そこでの話しの面白いこと、内容の豊富なこと、それがわたしにとってどれほど勉強になったか分かりません。
とにかく該博な方で、しかも並々ならぬ実力があったとおもいます。
「博士号の三つや四つ、取る気ならわけない」と放言していました
が、これは決して駄法螺ではなく、自他共に許すところだったのです。
先生はまた武道の方も達人で、剣は倉地武太夫について無外流の皆伝。
竹内流の柔術も得ておられました。
わたしが間口を広くしたのと、酒量の多くなったのはこの先生の影響です。

先生は震災に遭って、郷里に帰られたのですが、その少し前、朝鮮に布教に行かれ、
わたしもお伴して半年ほど、釜山や京城などにおったことがあります。

その後わたしは、日本から貧乏を失くすには、野中兼山の社会政策を行うほかないという先生の説に興味を覚えて、
その研究のために土佐に参り、先生の仮寓に居候していました。

たまたまその時、宮地常磐・堅磐父子の手になる沢山の写本が宮地直一博士から高知の図書館に寄贈されましたが、
どういう部門に入れるべきかが判らないので、館長が前野先生に相談されたのです。
先生が一見すると垂涎おく能わざる道書や神典の秘義を解明したものでした。

先生はそれをノートせよと命ぜられたので、兼山の研究を中止して毎日図書館に通い、
二、三ヶ月ほどかかって写し取りました。
ここで幸いにもまた前野先生の御指導を仰ぐとともに、その筆写を
通じて私は予期しなかった未知の世界の秘事を随分勉強し、また間口を一つ広めたのでした。
何が幸いになるか判らないものです。

先生は昭和15年、七十一才で亡くなられました。末後に、医師の膝に指頭で、
「七十一年わが世の春や屁一つ」と辞世を書かれたと、私が報らせを受けて馳せ参じたとき、
高知新聞に報道されていました。慈明院全徹自錘居士。

今でも御命日には献香諷経し、鴻恩に万謝している次第です。

      柏樹新書  心 眼  大森曹玄より 一部抜粋す

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