抱朴子(抄掲)抱朴子が曰く、 深く念いて道芸を学び、生を養う者も、師に随うこと、その人を得ざれば、竟(つい)に成る所なし。 凡(おおよ)そ生を度せんと欲するも、必ずその身を苦め、己を約して以て玄妙を修むる能わざる者は、また徒(いたずら)に、進んでは禄をもとむるの業を失し、退きては老い難きの功無く、内は其の身を誤り、外は将来を阻まん。 仙の学びて致すべきは、黍稷(しょしょく)の播種(はしゅ)して得べきが如く、甚(はなは)だ炳然たるのみ。 然(しか)も、未だ耕さずして、嘉禾(かか)を獲(う)るは有らず、未だ勤めずして長生して、世を度するを獲(う)るは、有らざるなり。 抱朴子が曰く 然(しか)り。玉ツ(きん)経の中篇に云う。 功を立つるを上となし、過を除くこと、之に次ぐ。 道を為(おさ)むる者は、人の危うきを救いて、禍を免れしめ、人の疾病を護りて、枉死せざらしむるを上功となす。 仙を求むる者は、当に忠孝和順仁信を以て、本要となすべし。 悪事の大なる者は紀を奪い、小過は算を奪う[紀は三百日、算は三日] 凡べて人の寿命は自ら本数あり。 又云う。 若し千九百九十九の善ありとも、中途にして、一悪を行わば、尽(ことごと)く前善を失うことなれば、 故に、善は必ずしも大なるを要せず、悪また小なるを恃(たの)むべからず。 悪事を作(な)さずと雖(いえど)も、口、及び行う所の事にして、若し返報を責求する時は、その善事は無効となる。 又云う。 積善満たざる時は、仙薬もまた益なし。 以上の所論によりて、吾 更に彭祖の輩の天に昇る能(あた)わざるは、適(まさ)に、その善行の未だ足らざるに由(よ)るなきかと疑うものなり。 地眞(「眞一」を守りて、身を保つべきこと) 抱朴子が曰く 余 之を師に聞くに云う、 人能く「一」を知りて、万事畢(おわ)ると。 道は「一」に起りて、その貴きこと、遇するものなし。 天は「一」を以て清く、地は「一」を以て寧(やす)く、人は「一」を得て以て生き、神は「一」を得て以て霊なり。 金は沈み、羽は浮び、山は峙(そばだ)ち、川は流る。 老君が言に、忽(こつ)たる恍(こう)たり。 故に仙経に曰く、 「一」に姓と字と服色とあり。 男は長さ九分、女は長さ六分にして、或は臍(ほぞ)の下
二寸四分なる下丹田の中に在り、或は心臓の下の絳宮(こうきゅう)金闕(きんけつ)の これ乃(すなわ)ち、道家の重んずる所にして、世々血を歃(すす)りて、口にてその姓名を伝うるのみ。
暢玄(ちょうげん) 抱朴子が曰く 玄(玄妙不知の大道)は、自然の始祖にして、萬殊の大宗(おおもと)なり。 その深きことは、くらくして視(み)るべからず、故に微(び)と言われ、その遠きことは、遥かにして邊際(はて)なし、 九重の空を覆わんばかりに高さあり、八方の隅(すみ)を籠(こ)めんほどの廣(ひろ)がりあり。 月日よりも光り輝き、電(いなずま)の馳(は)するよりも速し。 或るは、倏(たちま)ち燦(かがや)きて影の如くに逝(い)き、或るは見るまに沸き出でて星の如くに流る。 或るは、深く流れて淵の如く澄み、或るは乱れ散りて雲の如く浮ぶ。 あらゆる物類も、この玄によりて見(あら)わるれば、実体あるかとも思わる、さりながら奥深く潜みて、いと静かなれば、 金石もその剛(かた)きを比ぶる能(あた)わず、滴(したた)る露も、その柔(やわらかき)を等しくする能わず。 方形なれども、矩(まがりがね)と同じならず、圓(まどか)なれども、規(ぶんまわし)とは異なり。 来ることも見ることもなく、往くも追うこと能(あた)わず。 天も之によりて高く、地も之によりて卑(ひく)く、雲も之によりて行き、雨も之によりて施(し)かる。 この玄の中(うち)に含める眞一の元気は、陰陽の鋳型(いがた)となり、萬物の大始を吐き、或るは納れ、 天地の開闢を巧みになしとげ、造化の霊機を自由にあやつること、馬を御すにも似たり。 四時の気を呼吸し、虚冲淵の本体を奥ふかく統(す)べ括(くく)り、湮(ふさ)がり結ばれるものを舒(の)べ開く、 故に玄の在る所は、其の楽み窮らず、玄の去る所は、形器弊(つか)れて、精神も亦逝(さ)る。
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