偉大なる発光体の質問

 

このようにして肉体から離れた霊魂(アストラル体)は、肉眼では見えなくても、確かに存在している。
そして次には、素晴らしく輝く発光体と出会う。

ニア・デス(近似死―臨床医学的に肉体が死んだ状態)体験者のあるユダヤ人は、「私はユダヤ人なのに、イエス・キリストに出会いました」と語っている。
また、ニア・デス経験をした人の中の無神論者たちも、同じような発言をしている。

なぜなら、キリストとは宇宙的(ユニバーサル)なエネルギーだからである。
すなわちキリストとは、キリスト教以前から存在しているし、更にはクリシュナの起源以前から存在している。

この場合のキリストとは無論、イエスという個人を指すのではない。
イエス・キリストは素晴らしいイニシエイトであり、クリスティックなエネルギーを体現した人なのである。

 

さて、この愛と光に満ちた発光体の前に立たされると、私たちは素晴らしい心の安らぎ、すなわち安心を得る。

そしてここでは、言葉は不要である。
思考の伝達で意思の疎通ができ、またシンボルも用いられる。
夢やアストラル・トリップで用いられるのと同じシンボルである。

 

やがて偉大なる発光体が、「人生において何をしてきたか」という質問をしていることを感じる。

「この高い次元のために、何か役立つものを持ってきたのか」と、その瞬間、自分は何も持ってきてないことに気づく。
誰一人として、他人を助けることはしなかった。
誰のためにも献身しなかった。
そして、黄金の霊体を作らなかったので、まったく裸同然のボロをまとっているだけである。

(黄金の霊体とは、魂の衣である霊を浄化し、創造エネルギーである性エネルギーを昇華することによって、霊体が黄金へと変容することをいう。
そのとき魂は、輝くばかりの黄金色に包まれるのである。
黄金の霊体は高次層の乗り物であり、これを形成することができた人は、死後、高次層へと導かれるばかりではなく、生きている時にも、自由自在に次元を超えて行動することができる)

 

何度も生まれ変わりながら、物質的な仕事ばかりしてきた。
気を紛らわせることばかりで時間をすごし、現実を見つめるのを避けていた、
せっかく授けられた進化の為のチャンスを、その目的の為に生かすことをしないで、無駄に過ごしてしまった、ということに気づくのである。

 

こうして自己審判が始まるが、これは大抵三日から三日半かかる。

この時には、高次の霊や天使たちも来ている。
そしてその中の一人の天使が、私たちが人生で行ったすべての行動、考えた全てのこと、望んだすべてのことを、アカシック・レコードの中から映し出す。
まるで映画のスクリーンを見るように映し出すのである。
これが日本で言う、閻魔大王の浄玻璃の鏡に当たるものである。
よく事故などで死にかけた瞬間に、一生の出来事を走馬灯のように回想するということがあるというが、それと同じである。

 

アカシック・レコードは、日本語では「アカシャ年代記」とも言われる。
サンスクリット語の「アカシャ」からきており、その意味は自然界の第五の要素(四代要素は火・水・土・空気)としてのエーテルを表す。
すなわちアカシック・レコードとは、エーテル状の全記録媒体と言うことができる。
それには地球はもちろんのこと、全宇宙のすべての現象が刻印されている。
異次元に存在しているため肉眼で見ることはできないが、超常感覚機能や霊視能力、そしてアストラル・トリップによって、その記録を生きた書物として読むことができる。

 

溺れかかった時や、事故に遭って瀕死の重傷を負った時、この世の時間にしてみれば、ほんの数秒ほどの間に、自分の一生が脳裏に映し出されたという体験は、多くの人が持っている。
現在からさかのぼって、母親の胎内にいた時のことまで思い出すのである。
これは反射エーテルが私たちの記録を活動させて、一生の記憶を呼び起こすことによるものだ。
先に紹介した<前世を思い出す為のプラクティス>も、この反射エーテルの活動を活発化させて行うものである。
すなわち、それが私たちの"自己審判"である。

 

そのスクリーンには、自分が行ったすべてのことだけでなく、行動に移すまでには至らなかったが、頭の中でそうしたいと想像したことも映し出される。

つまり、ある人に性的欲望を持ったことや、殺したいほど憎んだことなど、どんな些細な悪事も、そしてもちろん、善い行いも映し出される。
あるいはまた、自分では気づいていなくても、自分の行為が他人に何らかの結果を引き起こしたことも映し出されるのである。

 

 

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