類別異境備忘録 水位先生小傳抄記述として  後學 清水宗徳

 

序(附記)

本稿は初めて本書に接せられる方々に、水位先生の凡その輪郭を知って頂く為めに
往年月刊「神仙道」誌に掲載した旧稿の一部を抜萃補筆して茲に附録として収載したものである。

当初、この機会に少し纏まった伝記を収めたい意図を以て
新に稿を起したのであるが、序説の「水位先生の神道観」だけでもう既に予定した紙数を遥かに超過し到底本論に入るべくもない。

私は苦笑し、次いで自らの迂闊に唖然として筆を擱いた。
熟ら反省するに、其の博学に於いて文字通り古今五千載の一人、
其神游に於て宇宙一万里の独歩たる先生の御伝記を附録としての紙数で扱ってみようと考へた企てそのものが無暴であった。

止むなく詳細な伝記は将来 若しまた道念篤志の合力の士の出現あらば独立した単行本として上梓することに希望を繋ぎ、
今は一切の資料を笈底に戻して、茲には旧稿の抄録に止めたことを 諒とせられたい。(昭和四十六年四月十日)

 

水位先生の幼時  水位先生が現界に生を享けられたのは嘉永五年で、亜米利加のペルリが浦賀に来航したのが其翌年であるから
天下を挙げて物騒騒然たる頃であつた。

宮地家 家牒には先生自ら、「宮地再来(ヨリキ) 嘉永五年壬子年十一月八日卯上刻土佐国土佐郡潮江村上町古名
縁所(エンドコロ)(字土居町西ノ丸ト云)ニ生ル幼名政衛諱ハ政昭ト称号ス父ハ宮地常磐母ハ同村熊沢弥平ノニ女ナリ」
と誌されてゐる。
以下先生直筆の年譜により御幼時を窺ふ事とする。

 一,堅磐生レテ僅ニ五十日ニシテ祖父美作主死去ス

 一、万延元年干時九歳水練ヲ田所左弥太ニ学ヒ鏡川中流ニ於テ殆ト一命ヲ失ハントス実ニ危キ事累卵ノ如シ幸ニシテ一命ヲ助ケラル

 一、同年十月土佐郡新町ノ住徳永辰助諱ハ千規(令義解ヲ明ニス)ニ文学入門

 一、文久元年干年十歳土佐郡潮江村ノ住山中慶助ニ随ヒ漢籍ヲ学フ

 一、同二年十一歳土佐郡潮江村ノ住吉岡兎内ニ随テ習字ス加フルニ朝倉町ノ住志和与平ニモ
   亦習字ス(習字僅カ八ヶ月其後習字セス故ニ頗ル鈍筆拙劣ナリ)

一、同三年十二歳同郡同村囀c四郎真利ニ随ヒテ経書ヲ学フ九月八日天満宮神主トナル常磐
   主ノ門人香美郡香宗中ノ村神職中川大和ヲ以テ後見人ト為ス政衛名ヲ若狭ト改ム

 

好学強記の天禀は幼時より早くも其の頭角を顕し、厳父常磐大人も水位先生の勉学には最も力を注がれ、
山内藩中に於いて名ある一流の学者武人に就いて文武両道を学ばしめられ、
長ずるに 及び十六歳にして山内藩の最高藩校たる致道館に学ばれたが、其外に七、八歳より十六歳に至るまでの間に於いて
家庭教師に就いて習学せられた科目は前記の他に国学経書史学易歴書天文学医学、
武道に於いては剣術柔術弓術手裏剣の外に砲術にも及び、特に砲術に於ては十六歳にして砲術取立役に任ぜられてゐる程で、
実に十八人の師に就いて十六科の学芸を研修されたのである。

 

十歳より神界出入

水位先生が神界出入されたのは御十歳の頃からで、厳父常磐大人の御使として脱魂法により
手箱神境に来往されるうち大山祇神の御恩寵を受け其御取り持ちによつて少名彦那神に謁見するを得たのが
神集岳神界を始め諸々の幽真界出入の端緒となつてゐるが、
十歳の青年で利かぬ気一本の先生の幽界来往は確か神仙界に於ける一異彩というべく、
行く先々の幽境で高貴な神祇大仙や女仙達から破格のご愛慈を蒙ったので、紅顔可憐而も恐れを知らぬ
天真爛漫の異童政衛(水位先生の幼名)が相当どころの仙真達を伯父さん伯母さん並みに狎近されて行つた御姿を想像すると
自ら微苦笑を禁じ得ない。

高貴な神仙達が「政衛には叶はぬぞ」と額を叩いて哄笑されることも屡々であつたことと想像される。
先生御自身も後年この事を 追想されて、

 神仙界に始めて入りたる時は尊き神等の御側近く参りて御自愛を蒙る事あれど、度々参出る事の重なる毎に
 其御界の掟など漸々知るが随に遠ざかり後には御側近く参る事も尊き御位に
 恐れ且つ其御掟より近くは参る事かなわざるなり(中略)始めて神仙に伴はれ参る時は其御界の掟をば
 少しも知らぬものにあれば必ず奇妙な霊物を拝閲する事多し。(異境備忘録)

と誌されてあるが、斯くて年少十歳なるやならずして高貴の神仙たちに接触されてゐた先生は確か人間どもが
卑賤に見えて仕方のない時代を持たれたに違ひない。

宮地家に出入する多くの家庭教師達に対しては決して「何某先生」と呼ばず、山中とか吉岡とか呼び捨てにされたもので、
先づ書道教師の志和氏と吉岡氏が すつかり憤慨して家庭教師を辞退してしまつた。
先生が其年譜に「習字僅カ八ヶ月、其後習字セス、故ニ頗ル鈍筆拙劣ナリ」と誌されてゐるのは其のことで、
晩年の御手記にも此事を追憶されて、この為に著述の生涯を通じて どの位損をしたか知れぬと述懐されてゐる。

先生は其の後になつて深くこの事を悔ひ改められたが、兎に角既に十歳や十一歳の少年にして気鋭当るべからざるものがあつた。
この剛邁の御気性は 御生涯を通じて変らなかったので、
其の該博の識見、懸河の如き雄快の弁に対しては当時第一流の学匠と雖も面と向かつて論敵となることを避けたと謂はれる。

 

宮地家の家格

憤慨居士の書道の教師は別として、
それでは他の家庭教師たちがどうして それに甘んじられたかといふに、
それは宮地家のお家柄が物を言ったものであらうと思はれる。

宮地家の遠祖は日本武尊の第四王子建貝児王(タケカヒノミコ)より出でその八代の子孫宮道(ミヤヂ)信勝大人が
山城より土佐に転住し潮江村に居宅を構へて 当時配流の高視(タカミ)公(菅公の御長子)に仕へたのが
宮地宗族たる潮江宮地の発祥で、後に菅公筑紫に薨逝せらるゝや其常に佩かせ給ひし御剱並に御鏡を捧持し
白太夫松木春彦之を高視公に授け参らせしを 御霊代として斎ひ奉り、八大龍王社に合祀せられたのが
今日の潮江天満宮であるが、宮地家は 代々その祀官を勤め連綿水位先生に及んだものである。

水位先生が神界に於て菅公より特別の御取為しを受くるに至ったのも深い因縁の存することである。

また先生の厳父常磐大人が手箱山を開山されたのも、
此の八大龍王社が其の実は手箱神境の一環たる大滝の海神を勧請して奉斎した古社であることを思へば
奇しき縁(イニシ)の糸に繋がる紋理の綾に驚くの外はない。

其手箱神境が 水位先生の神界出入の登竜門を為したことも蓋し当然の因縁であつたと言ひ得る。

因みに、土佐の宮地姓は頗る多いが其の宗族たる水位先生の潮江宮地家と宮地厳夫先生(元宮中掌典)の宮地家、
それに東大教授にして神祇史の権威たりし宮地直一博士の宮地家を加えて宮地三家と謂はれ、
其家格は土佐藩でも常に一目を置かれてゐたので、三家の一たる宮地伊勢守が従五位に叙せられた時、
もう一階進めば藩主と同格になるといふので、連枝家老の連中大いに気に病んだといふエピソードがある。

 

十二歳で祀職を継ぐ  

先生は十二歳で家伝の潮江天満宮の祀職を継がれ、十三歳の正月五日神祇官領卜部家の許状を得て任官し
宮地若狭佐菅原ノ政昭と名乗られた。
十二歳と謂へば昨今の少年はまだ「よい子たち」であるが、先生は早くも堂々たる高知随一の大社の祀職 として任官し
神明奉仕の傍ら一切の社務を鞅掌せられたのである。

慶應三年十六歳の砌といふから藩校致道館へ入学された年、勧懲黎明録を著された。
「是 著述ノ初ナリ」と先生自ら年譜に誌されてあるが、その健筆と浩瀚を以て古今随一と称せられた平田篤胤大人を
遥か後(しりえ)に瞠若たらしめてゐる著述十等身といふ先生の大著作の発端は実に此の年に起ってゐる。

先生の御快筆振りは正に天馬空を行くの概があり決して人間業とは思はれない節がある。
普通の雑文ならば兎も角、考攻精竅引証詳密を極めた斯道の権威ある千古の大著雄篇が斯くも快調に作述されて行つたことは
確かに奇蹟に値する。

而も先生の主たる著述期間は正確にいふと廿歳から四十八歳迄の廿九年間で、
学者としての年譜の面から之を見ると餘りにも短い。
而も其間屡々東都を初め諸国を游歴されて居り、
其著述に費される実際の時間は極めて短時間であつた事が計算される。

先生には岑(ミネ)正雄といふ祐筆の方が常侍して、重秘のものは別として、
先生の書き流されたる御草稿(先生の御遺稿で同種の著述本が二部づゝ存するものがあるのは、
一は先生の御直筆本、一は岑(ミネ)祐筆の浄書本で、その為に一部が散失の厄に遭っても他の一部が健在であつたといふ
神ながらの組合せが度々であつた。) 

順次に浄書してゆかれたのであるが、流石の岑(ミネ)祐筆も筆を投じて長嘆息される事が屡々であつたと伝へられてゐる。

 

浩瀚の道書仙籍   

考証に要する資料の一般としては宮地家伝来の蔵書の外に、
藩校致道館が 廃藩置県によつて廃校となつた際その数万冊の図書を
厳父常磐大人が入札購求して之を全部水位先生の勉学の資料として与えられたのであるから
通常大抵の文献は事?かかなかつたのであろうし、
事実宮地家には土蔵へ入れた貴重道書の外、
書斎から神殿に至る廊下までも大本箱が数十架ずらりと並んで足の踏み入れ所もないありさまであつたことは
現存の目撃者の斉しく語るところで、先生自身も「其数幾萬巻ナルヲ知ラズ」と誌されて居り、
而もその大部分が求道好学の士の垂涎措く能はざる道書仙経の珍籍であつた。

其中でも京都で 発見されて入手せられた百二十二巻の雲笈七籤や中国地方の某所に隠没して居たものを游歴中に得られた
墨子枕中五行記、筑前に於いて発見入手された准南鴻寶萬畢術紀及び雲笈道蔵の異本類は貴重書中の貴重書で、
先生も「韋編百度絶ツ」と誌るされてゐる。

この他に諸国游歴中に得られた符図類も其数幾千なるを知らずと云はれてゐるが、
是らを整理補訂され正しき玄学の学統を体系づけられた先生の御労苦に対しては吾々後学の道士として
誠に言辞に尽くし難い感謝を捧げねばならぬのである。

所謂る仙種を根蒂とし好学を機発として 孜々営々の実を結ばれたので、
尊い仙真の再生として幼少十歳にして既に神仙界に来往された水位先生にして此の御研鑽と勉学あり、
吾ら凡庸下根の人間にして神仙界久遠の大道を仰慕する者は此の際改めて深く「求道」 の根本的態度を反省せねばならぬ。

 

十九歳より玄学に棲凝

一、明治ニ年十八歳正月ヨリ学室ニ籠居シテ学術ヲ勉学シ寝食ヲ忘ルゝニ至ル六月太古史叢談ヲ著ス

一、同三年十九歳名ヲ清海(キヨミ)ト改ム霊魂論二冊ヲ著ス是ヨリ専ラ玄学ニ棲凝ス但シ伯父重躬ニ就キテ医学ヲ学フ

この辺りで先生の幽真界方面の御消息の一端を窺ふと、先生の現界に於ける学術の素養進むにつれ神仙界に於いては
漸次として玄台山の書館に出入を許され神界秘重の道書類の閲読を得る便宜が与へられ、
加之(しかのみならず)、高貴の神真大仙より直接指授の機会に接せられたので、
普通世の常の学者の著作とはまた自ら別個の立場が恵まれてゐたことも併せ知らねばならない。

  一、同四年廿歳正月ヨリ学室ニ籠ル同年著ス所ノ書目天武天皇正統記二冊。大学正記一冊
    鬼神新論附録一冊。神母正記。筆山奇談。玄徳経一冊。幽霊」叢談一冊。大祓詞解二冊。
    校訂體道通鑑増補篇一冊ヲ著ス

弱冠二十歳の青年にして年間早くもこれだけの専門的な著述を陸続として作述して居られるのである。

明治初期に於ける第一流の神道学者たりし矢野玄道翁の如きも水位先生に師事され、
玄道翁の名著「訂正大学」は実に水位先生廿六歳の時の原著によりて大成したものである。

先生の年譜にも「矢野玄道ノ著セル訂正大学ハ余ガ原考ニ依テ著ス処ナリ」と誌るされてゐるが、
矢野翁が其帰幽に臨み予め訃報を発して親類知人を招宴し酒杯を挙げて談笑しつゝ席上端座せるまゝ悠然として帰幽されたのは、
翁が水位先生に師事して神仙道を学び尸解法の修煉を成就してゐたからで、
翁は其の席上尸解法によつて解脱せられ玄胎を以て仙境に遷られたので、
矢野翁は謂はゞ吾々水位門流道士にとりて先輩門人といふ事になる。

また明治の易聖と謂はれた呑象高島嘉右衛門翁の如きも水位先生の門人で我が神仙道を学ばれた先輩である。

  一、同年廿一歳七月十七日名ヲ堅磐ト改ム
  一、同六年廿二歳故アリテ水位ト改ム二月四日ヲ以テ東京ニ上リ下谷ノ学舎ニ入リ講授補役トナル六月故アリテ帰県ス
    此年屋号ヲ苔生舎(コケムシノヤ)ト改ム

水位先生は多く堅磐(カキハ)の御名を以て知られて居るが、之は廿一歳の時の御改名で、
其の翌年水位(スイヰ)と道号せられた。
吾々が日夜敬慕して称え奉る水位先生なる御道号は実に少名彦那神が命名せられたもので、
年譜中には「故アリテ」と誌るされてゐるが、これは他の手記によりて明らかである。
水位といふのは星の名に因まれたもので、支那の仙伝にも、
人間出游の仙客がよく何々といふ星の精の化身などゝ謂ひ、
本朝でも小野篁(タカムラ)は 破軍星の精なりと伝へられてゐるが、
先生が水位星の名に因みて青真小童君少名彦那神より水位と命名せられたことは其辺の消息を窺ふに足るものかと考へられる。

其後三十歳にして又別に中和(ちゅうわ)とも号せられたが四十九歳にして再来(ヨリキ)と改名された。
「明治二十三年七月大患ニ罹リ殆ト死ス八月堅磐ヲ改名シテ再来ト改ム」と誌されてゐる。
(此の廿二歳の年東京に上り下谷の学舎の講授をせられたといふは如何なる学舎か詳らかでないが、
或いは皇典講究所の前身たる学舎ではなかつたかと思はれる。此年から九年後の明治十五年、
有栖川一品幟仁親王を総裁とする皇典講究所が創設さるゝに際し、先生は其の委員に任ぜられてゐるが、
這般の事情を物語るものではあるまいかと考へられる。)

 

青年時代の著述一班

   一、同十年廿六歳、本年著 神仙霊符法一冊 天狗叢談一冊
     導引法房中法一冊 玉泉九転論一冊 還丹保身論一冊 神仙順次伝一冊 使魂法訣一冊

     一、同十一年廿七歳 学堂ニ籠居ス 玄真栞一冊 神仙妙術訣一冊 奇火叢談一冊 玄学叢籍抜粋一冊
     漢武内伝国字伝解一冊 神仙霊含記一冊 中山玉櫃経国字解一冊 訂正大學二冊 飛燕外伝一冊ヲ
     著ス処ナリ

     一、同十二年廿八歳 神僊真形図施行法一冊 補史記弁一冊 庚申集説一冊 君臣明倫編一冊
     神僊霊符箋二冊 神仙大還丹編二冊 玉条含真記一冊 神仙伝道開端篇一冊 和漢再生叢談一冊
     医道叢談一冊 好道意言一冊(以下著作に関する年譜略す。巻末の著述目録参照)

先生の著書に接するものは、先ず開巻劈頭先生が百科の学に精通せられた底知れぬ学識に圧倒されるのであるが、
同時に先生の学者的良心と、孜々として後進後学の士の誘掖に心肝を砕かるゝ 師父としての温情が文理を縫ひ語脈を貫いて
惻々肺腑に迫り来るを覚える。

先生の渉猟せられた百科の学は、先生の学究心の赴くところ必ず専門的に之を究められたので、
一例せば煉丹や仙薬の部門に於いて縦横に駆使されてゐる植物学礦物学の知識は恐らく専門家の学者と雖も
一驚を喫するであろう。

先生が十八歳の砌(明治二年六月)手箱山より石槌山を経て讃岐、阿波の山中を跋渉された折早くも鉱山を発見されてゐるが、
十八歳にして既に其方面にも専門的な眼識を具へて居られたことが判る。
 

医学は洋、漢の二方に渉って居られるが本草綱目に関する精密な著作もあり、
四十歳前後からは 生物学に興味をもたれて顕微鏡を買込まれて熱心に微生物の生態研究などを楽しんで居られた。

大にしては宇宙の遠陲四十光年と称せられる北辰星中の紫微宮神界にまで出入された先生が
草苔の裏より一介の微生物を探ね出し、ためつすがめつ顕微鏡下の世界を覗き込まれてゐる御姿を想像する時、
この不世出の神人の謫仙生活の一齣にほゝえましくも亦涙ぐましき無量の感懐を覚えるのである。

 

神道界の異端者扱ひ

また先生の学的生涯は其の特異の霊的環境よりして極めて高次元的であった。
文字通り奇想天外より来るものが多く、人間的な精励刻苦の上に築きあげられた学識の上に更に天来の思想を点睛された。
然し大声俚耳に入らずの譬の如く、当時の神道界としては之を異端視する者多く、
特に郷土土佐の神道界は極端に之を排撃した。

勿論先生の前に 正々堂々の学論を挑む者はゐない。
蓋世の神道学者として平田篤胤大人を再現せる如き其の博学宏才と蘊蓄の前には鎧袖一触到底ものゝ数でもない事は
夙に自知してゐる人足連中のことである。
それだけに陰に之を譏り之を誹謗して自慰自撫してゐる者が徒党を組んで鬱然たる排撃の気勢を揚げてゐたのである。
古今を通じ東西に照して有り勝ちな事で「学」そのものゝ真理を忠実に追求することよりも利害関係や感情の清算を急ぐ
浮薄の徒が何れの世にも蛆虫の如くに充満してゐるものである。

たゞ平田派の古学の微旨に心を寄せてゐた国学の士が宮地家の門を潜る程度で、
其の門人の大部分は県外遠隔の地から来集したものであつた。

尤も神仙道に対する迫害は水位先生に発したものではなく、厳父常磐大人の場合もさうで、
特に手箱山開山と大人の神事修法の霊験に対する嫉視と誹謗は遂に藩庁を動かし、
一時は常磐大人の潮江天満宮神主を差止められるに至った程であつた。

宮地家々牒に「万延元年庚申六月十三日
出足ヲ以テ手箱山ヲ開キ鉾ヲ山上ニ立テ大山祇神ノ璽ト仮ニ定ム日ナラズシテ帰ル時ニ神事ノ盛ニ行ハレントスルニ会シ
奸臣是ヲ悪ミ万延ニ辛酉年三月四日神事ヲ扱フ事ヲ被差止手箱山ノ一条並ニ神掛リ等詮議ニ掛ル此時官吏ニ答ヘタル書アリ
天理正義ヲ以テ答フト雖モ官吏是ヲ 非ニ曲ケテ文久三年癸亥八月廿三日神主ヲ被止嗣子政衛神主トナル」とあるが、
預言者郷に容れられずの感が深い。

 

薄幸の人間生活

水位先生が最も閉口されたのは極端な経済難であつた。
先生は潮江天満宮の祀官として其の僅かな神社収入や門人の束修、謝儀などが唯一の財源であつたが、
持前の学究心から前後の考へもなく無計算に書籍の購入に費やされる支出が莫大の額に上り
其の度に動きのとれぬ経済難に見舞はれた。

斯うした場合は地方或いは京阪神の古本商を招いて 其幾万巻の蔵書中から差当り不用のものを売払ったりせられた。
この極端な財政難に対しては 流石に計算無頓着の先生も餘程閉口され、
特に厳父常磐大人帰天当時の窮境には非常に落胆 されてその頃の日誌には、
 
 学ブ所ノ道書ソノ幾万巻ナルヲ知ラズ茲ニ於テ自ラ誇リテ之ヲ云ヘバ古今道書ノ玄旨ヲ究メ
 幽現出入ノ術練形ノ方百端ノ理ニ達スト雖モ今遽ニ陽九ノ厄ニ会ヒ父ハ逝キ母ハ歿シ稚子
 手ニ縋リ足ニ纏ヒ火薪担石ノ攻メニ周章シニ鼠根ヲ噛ムノ衢ニ狼狽シ自然世ノ濁流ノ賤シキニ処シ
 気ヲ服シ符図ヲ帯ビ以テ天僊ヲ慕ヒ坐在立亡天地昇降ノ途ニ就ク能ハズ

と嘆かれてゐる。神界出入幾百回を数へ、神祇大仙等の御慈愛も深く、神集岳神界に御常殿さへ賜はつて居られた先生としては、
人間界の濁流に処し卑賤の輩の嫉視誹謗や極端な身辺不如意に跼しゅんせらることは決して其の御本意ではなかつたに相違ない。
人間(ジンカン)地臭の穢界を捨てゝ一刻も早く元の神界へ帰山せられたかつたに相違ないと推察し奉るが
「謫仙」として流謫の運命の下にあられた先生としては其の不遇不如意も亦た真に止むを得ない次第のものであつた。

 筏ヲ浮ベ蓬莱ニ赴カムト欲シテ一 コウヲ進ムル毎ニ人間(ジンカン)ニ遠サカリ仙境ニ近ツカムトス。
 童男アリ、磯ニ立チテ我ヲ慕ヒ呼ビ、僊山ニ踵ヲ企テ躋(ノボ)ラントスレハ一歩ハ一歩毎ニ高クシテ下塵ニ離レ仙洞ニ近ツカムトス。
 童女アリ、麓ニ彳(タタズ)ミ我ヲ恋ヒ招ク。
 思フニ人情ハ天地ノ自然ナレバ父子恩愛ノ情マタ捨ツルヘキニ非ス

人一倍に子煩悩であつた先生としては、幼少の御子女たちの行末を案じては
尸解の期を早めて道山帰参を希ふわけにも参らなかつたので、
この一文のうちに先生の慈父としての温容がしみじみと滲み出てゐる。

父子恩愛の情も天地の自然であるが、師弟の情も亦天地の自然である。
師父と称し弟子と謂ふは即ち父子の情になぞらへての事で、道統に結縁すべき一大事の本づく所も師父子弟の真情が根核である。

 

人界出游五十三年

水位先生は明治三十三年から三十七年三月二日に至る五年間を病床に送られ五十三歳を尸解の期として道山に帰られた。

されば先生の人間的御活動の年齢は明治三十三年御四十八歳を以て終焉を告げてゐるので、
学匠としての先生の御生涯は餘りにも短い。
而も短い歳月の間に十等身に及ぶ大著述をものされた先生の白熱的学究心を直ちに採つて以て
門末後学の道士の信条とせねばならない。

先生がー肉身による最高神界出入といふ破格の立場を許され、
不出世の神法道術の達人たりし先生が晩年五年間に亘りて病褥に親まれ而も五十三歳といふ短い人生を閉ぢられたといふことに
就て重ねて申し添へたい事は、先生は謫仙であり、謂はゞ其の過ちを償はれるために地上に人間生活を過すべく再生されたもので、
明治時代に於て幽真界より人間界へ再生せられた六仙真の一人で在られたのである。

異境備忘録を拝読するものは、 川丹先生は其根元は神界にて水位と同官同位なりしが、
水位冥官の掟を誤り此界を退けられしこと久しきが間に川丹先生は位階も進み
(中略)再びこの界に出入の赦を受けてよりは師仙と仰ぎ敬ふなり。

水位の根元神界に出入せしは十歳の頃より小童君に伴はれしが始也。
とある一条に気付かれる筈であるが、先生は人間としての御生涯よりも謫仙としての流謫の肉体生活を過されることが
神定めによる人界出現の運命で在られたと信ぜられる。

幼少十歳にして早くも神界の根本中央府たる神集岳神界に出入されたといふのも、
其の御前身が尊い仙階を有せられた謫仙であられたからで、
先生が現界御廿六歳の春(明治十年三月五日)既に神集岳二十八令の員列の内に列なり、
五寶宮七等兼玄台開監令、賜玉京山紫蘭上殿、奇文第四等の仙階たる小霊寿真に任ぜられ、
御四十歳台には大永宮官属霊宝鴻図総櫃中録事、奇符第三等たる大霊壽真に任ぜられてゐるのも、
単なる人間的修煉の得力によるものではなく、流謫前の仙職の官位に復せられる過程であると解釈しなければならない。

(人間道士が稍々使魂法に習熟して霊境と覚しき界に出入する様になつても、
いきなり画棟朱簾玉殿楼閣に参殿して高貴の神仙に謁するといふやうな機会に容易に出会しないのは
当人のもつ仙階の高下による場合が多いので、
人間道士に許される仙階は普通判令八十等級の内の極めて限定された初級位である。)

 

壮絶悲絶の大犠牲

されば先生が人間流謫の期満ちて肉体を脱せられめでたく道山に帰参せられんとする晩年に際しては、
早急に罪過消滅の清算を急がれねばならなかつた霊的事由が重畳し来つたことも考慮せられねばならぬし、
また北天神界を始め、神集岳萬霊 神岳神界等宇内根元の最高神仙界の実消息をはじめ
種々神仙界の秘事を現界に洩らされた修祓の意味も充分に考慮されなければならぬ。

斯くて水位師仙の尊い犠牲の御苦悩の代償に於て、
坐して神仙道の真眼目と霊胎千万年の幽真生活の揺るぎなき不動の最高目標を知り、
併せて修道上の階梯を嫡承正真の道統によりて受伝することを得るので、
吾らは此際今一度 静に反省反芻して今日の道縁道福の拠つて根元するところを熟慮精思しなければならぬ。

キリストは十字架上に忍苦絶叫しつゝ神の御名と栄誉に於て万民の罪に代らんことを祈つたが、
先生は流光五年の長歳月に亘り筆舌に尽し難い病苦の代償に於て
修真の以て根元するところを門末後学の道士に伝承せしむべく、
天上将来の道系を地の世界に遺すことに成功せられたのである。

而も御犠牲は先生御一身のみに止まらず、最愛の二男四女挙げて尽く夭歿の犠牲を以て之に代へられたるは
何といふ壮絶悲絶の代償であらうか。
水位門流を汲むの道士は、造次にも顛沛にも此の惨ましくも尊き蔭の大犠牲を忘却してはならぬのである。

天意によりて、幸にして其道統及学系は水位先生親族にして且つ道友たりし元宮中掌典東嶽宮地厳夫先生(仙名方全霊寿真)
によりて紹統され、更にその嫡嗣たる元官幣大社南洋神社宮司泰岳宮地威夫先生之を紹継せられ
初代神仙道本部総裁として後学の道士に之を附嘱せらるべく水位神仙道の公的修道機関を
因縁の地たる土佐国高知に創立し以て道統の今日あるを得たのである。

 

尸解の大解脱

先生は明治三十七年三月二日、肉親生活五十三歳を以て尸を解かれ再び 元の神集岳神界へ帰参せられたのであるが、
先生御帰幽の当夜、其御柩より一大音響と倶に 閃閃たる電光を発し、通夜に集ひたる門人神職を始め、
親族氏子総代ら皆な一時は春雷かと 驚いたが、
之は神仙道に伝はる尸解法を以て瞬時に肉体を跡形ものく雲消霧散して霊胎(玄胎・ 仙胎)に移り仙去されたもので、
非礼の言に亘るが若し此時御柩を開き参らせて内を改めたらば、既に御遺体は無く、たゞ空衣のみを残して居られたであらう。

この話は曩に先生の令夫人の 実弟北村正喜翁から先生の御柩が餘りにも軽いので大いに怪しまれたと承つたが、
後に先生の 通夜に列して目のあたりに其神異事実を目撃した常磐井鈴女史から二十年ほど以前親しく聞いたところである。

私がお会いした時、女史は九十四歳であつたが、一見六十歳前後の風貌で、 目も耳も若い頃と変わりなく、
歯は一枚も損じたところはないと申されてゐた。漆黒の髪と、 キチンと端座された姿の落ちついた美しさが印象に残つてゐる。
漢籍に造詣が深く、記憶も生新で、水位先生の逸話など昨日のことの様に色々と話されてくれたが、
尸解の事は特に留意して 承つた次第である。

 

 

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