異境備忘録(いきょうびぼうろく)

異境備忘録(いきょうびぼうろく)とは、土佐の潮江天満宮神官・宮地水位が、12歳の頃(1862年(文久2年))より40歳近く(1895年(明治28年)前後)までの間、
幽冥界の許可の下に魂を離脱(神遊び・脱魂)し、またある時は肉身のまま異界を探訪し見聞したと称する、破天荒な記録手記風の日記である。


流布された備忘手記

水位が幽冥見聞した七十八区界は、類別すると神界・神仙界・両伝仙界・山人天狗界・仏仙界・魔界などに分類される。

この手記は、宮地水位を信奉する道士や神道系宗教団体等の一部では、現在でも「神仙界の実消息を伝えた、地上開闢以来の重大記録」と位置づけられている。

現在流布している『異境備忘録』は、1887年(明治20年)頃、宮地水位が37歳のおりに編纂し直されたものである。

水位には生前3,000人の門弟が在籍していたと言われているが、神仙系の特殊伝法相伝書や備忘録の手記の存在については極一握りの者にしか公言していなかったとされる。
子息一誠氏夭折のため、水位の逝去後は、親族で元宮中掌典職の宮地厳夫が極秘資料を秘かに譲り受けて預かることとなる。

その後しばらくして、厳夫の大阪での神道講演の際に、岡山県の安仁神社禰宜・太美萬彦と知己を得て後に、太美氏は宮地家の屋敷に伺い、
互いに同気合和して厳夫翁が所持する河野至道の著した二冊の原本を閲覧して筆写し、写本は許諾をへて持ち帰り、それ以後は門人となる。
この他「仙界真語」「幸安仙界物語1〜3」「薩摩神変奇録上・下」「前橋神女物語」その他幽冥界に関する資料を許多写し帰り秘匿した。

又他見厳禁の誓約のもとに異境備忘録を写本することを許されたが、その間太美は方全先生宅に起居して、
約一週間に亘り備忘録を謹写し了へた事実は嗣子宮地威夫先生も傍らより目睹して、その事実を知悉して居られる。
萬彦が30歳で夭折したため、その後は遺族の太美淳氏が預かることとなり、これ等の資料を山口県田布施在住の友清氏が借り出すところとなった。

遺されていた垂涎の出るが如き写本類を高額の金子を渡して友清歓真(宗教団体神道天行居創設者)が借り受け、
1928年(昭和3年)、友清は自著の『古神道秘説』の附録や
後に天行居パンフレット『神仙の存在に就いて』『幽冥界研究資料』の中に於いて公開し教団に属す一般道士連にも頒布した。

大正12年10月22日周防の天行居より出版されたB5版和綴じ本幽冥界研究資料刊例末尾の中に、
本書刊行に就いては、原稿の転写等の労に任ぜられた太美淳氏武内其太郎氏の盡力に負うところ多しと友清氏が敬意を表しておられるので、
借り受けた時期が大正期の後半ということが判明する。

この経緯により後に秘匿されていた異境備忘録や河野至道仙人の手記が世間に知れ渡る契機となった。

潮江天満宮の宮地家とは姻戚筋でもある文筆家の宮地竹峯(猛男)は「神道精義」や文学関連の本を執筆されておられるが、
大正3年9月に竹峯より、この神道精義の書物に前書き依頼を受けた水位と同門で姻戚筋の宮地厳夫が次なる文辞を序文に寄稿されておられる。

「夫れ神道は、我が国家的精神の源にして、神道の盛衰は、直ちに国家の興廃に関す。
故に神道の隆昌を祈るは、独り神道家の務めたるのみならず、一般国民も亦その興張を念とせざる可からず。
項日(けいじつ)宮地君来たりて、神道精義の草稿を示さる。
就いてみるに神代の事蹟に閲する説の中には、意見を異にするもの無きにあらざれども、神道の大体を説明して遺漏なきに近く、
殊に神道と国体との関係を論ずる処、光?萬丈興味の津々たるものあり。
寔に好著といふ可し。冀くは、此著によりて広く神道の何物たるを知らしめ、神道的精神の国体の精華たる所以を明らかにし、以て皇運の隆昌と国運の発展に資せしめん事を」。

竹峯は実は在野の宮地神仙道研究者で土佐史談にも度々起稿なされておられる。

晩年の竹峯と親しかった清水南岳の見解によると、異境備忘録は相当の分量が逸失しており、
辛うじて手許に残存した手記の中の幾許かを1887年(明治20年)になって綴束されたものが現存の本書であろうと推察される。
そのような理由で其の記述内容にも隔たりがあり、内容が断片的になっているが、其の違和感に却って本来の真実性が感じ取れるとしている。

京都大学図書館所蔵本の中に、宮地常磐翁の直筆本や1899年(明治32年)に斎部宿称八潮彦という人物の筆写した異境備忘録や神仙順次傳なども保管されているが、
末尾に本人の筆跡で、宮地家より借覧するとあり、現在のところ目にすることの出来る文書の中では、この写本が原書に近い形の水位翁の稿本や手記ではないかと言われている。

昭和41年に東京新宿より町田市に移転した財団法人無窮会・神習文庫の蔵書は、平田学派の国学者で宮地厳夫翁と交流のあられた井上頼?の蔵書数万冊が母体となつている。
蔵書は神道・神社関係の資料が主であり、土佐潮江天満宮神官・宮地水位の物されたものなども一部ではあるが保管されていると聞く。

戦前に神道学者・宮地直一博士の寄贈された高知市立図書館保管の宮地文献資料は空襲で灰燼と化し、
その他宮地の資料は空襲で焼かれてしまったものが大半であるが、東都の臨済宗高歩院住職の方が、宮地文庫から書き写されたものを保管されておられたり、
古書の中に混じっていたり、由緒ある神社仏閣などの書庫の中に埋蔵されている書物の中にも未公開文献資料が紛れこんでいる可能性があると思われる。

此の外山口県田布施の宗教団体では、主催者が蒐集した
『禁厭秘辞』『禁厭集』『鎮魂祭式一家法』『海宮考』『大国主大神御伝記』『蛇の室屋』や水位の伝書類を集めて編纂した『寿書外篇2巻及び4巻5巻』etcの他に
埋もれた水位文献を参考に、県外などに流失して分散していた断片的な資料を幾許か探し出して、
自己の主観により霊符や真形図類を他見厳禁の誓約のもとに道場に於ける伝書として
「格神講伝書一・二」「磐門直伝一・二」「太古神法」初段・中段・奥伝・別伝や鳳凰寮所伝の「霊験雑符抄」etcの中に一部水位秘伝の直伝として信者間に公開している。

これらの伝書の中で公表された一部の貴重な資料は、水位とは姻戚筋の宮地直一博士が高知県立図書館に寄贈した宮地文庫より
戦前に友清氏の側近の者が書写されたものから複製したものが大半である。

後にこの図書館は空襲に遭い数万冊の蔵書とともに宮地家の文献類も一瞬にして塵埃と化し、
また山内家が蔵書した水位の再来病中日記106冊も炎上により灰燼と化している。

水位亡き後宮地厳夫が仲介して亀刀自夫人所蔵の書籍(致道館蔵書本を含む)の一部を、
宗伯爵家に譲り渡し、道家に関する資料の一部は戦火を免れて対馬の地に現在も大切に保存されて残されていると聞く。

江戸時代の平田学派の国学者たちは、幽冥界や異境、隠れ里の有様や、神隠し、生まれ変わり、百鬼夜行などの神秘譚の記録とされるものを挙って蒐集し、
それらの文献を参考にして様々な視点から考察して、可能なものは実地調査して調べ上げ書き残している。

これらの玄学研究の先駆けとなったのは、徳川期文政年間に異界から戻って来たと噂された仙童寅吉と対面して
幽冥に関する質疑応答の聞き書きを基に平田篤胤が編集記録した『仙境異聞』奇譚、
篤胤没後に紀州の町医者・嶋田幸安と称す青年が異界で見聞した物語を平田門下の紀州藩の下級武士参澤宗哲が側聞して筆記した『幸安仙界物語』こと神界物語、
この二つの奇譚は江戸期に市中に生じた奇想天外な二大神秘実録の物語である。

また篤胤門下の逸材の一人、京都向日神社の神官・六人部是香も、師の霊の真柱、
古史伝や幽顕弁を読む事に依って触発され、篤胤の幽冥観を更に敷衍して『顕幽順考論』や『産須那古社傳抄広義』、順考神事傳などを書き著して
産土神の神秘を力説して啓蒙しているし、土佐の宮地家と交流のあった大洲の矢野玄道も影響を受けて
「魂神要論」や「本教学柱」の中で皇国の歴史的成り立ちと幽冥思想観の結びつきの重要性を特に力説しておられる。

これらは何れも平田神道の秘教的教義の流れを汲む玄学思想で、
明治中期頃に綴束された手記『異境備忘録』もこれらの系譜の脈流に位置する重要な文献の中の一つと見做している。
よって宮地神仙道を憧憬する求道者間にあっては、神道を学ぶ者にとって古事記や日本書紀が教典と見做される様に、
この水位の備忘の記録を玄学の道標として憧憬尊崇致している。


断片的内容の備忘記

山口県田布施の宗教団体主催者が昭和3年に自著(古神道秘説)の付録として印刷に付し公表した門外不出の手記とは、
潮江天満宮神官である宮地水位(堅磐)が明治元年 - 13年にかけて幽境の七十八区界を探訪し見聞したもので、
重要な出来事は記憶に止めて存思し、備忘紙に密かに綴ったものが異境備忘録である。

それ以後も明治28年40歳頃までは異界との交渉があったと言われているが、この前後患われて病に臥し、それ以後 天来の神通力も失ってしまわれたと言われている。

見聞を記載した内容が天機に触れると思われる箇所は、その該当する部分は祝融したり破棄されておられる。
特に差しさわりの無いと思われる記述に関しては手許に遺し後になって編集し直したものが、実は今日目にする事の出来る異境備忘録であると言われている。

この間の諸事情については水位の言葉が記録されて残っており、
「幽界は毎々見て別に記し置ける書ありしに其中には人間に洩らされぬ秘事も多くありて其の書を人に見せる毎に、
熱病を七日ばかり発する事はいつもたがわず、故に去る明治16年一月一日に焼き捨てたり。これは故あることなり。
いかにしても大事をば書き留むる事がたきは、こは幽冥中にゆるさぬ理あるべし」と仰せられておられる。

備忘録の内容は江戸期の二大奇書「仙境異聞」「神界物語」に匹敵する奇想天外な異界の有様を見聞して詳細にその有様を記録したもので、
画才に秀で水墨画の嗜みも深かった水位は異境に出入して見聞してきた幽冥の模様や有様を忠実に筆で記録するとともに、
脱魂や卜歩による離脱からもどると、今しがた体験した記憶を呼び覚まして、重要なものには意識の内面に、
その情景を事細かに写実描写するが如くに刻みこみ、書斎の中に入り堆く積まれた書物の置かれた机の前に坐して瞑目し、
止めていた記憶を呼び覚まして和紙や図引き紙などに眼光紙背に徹するが如くに書き表し、色彩を施して丹念に写し取られておられた。
水位によると、それらの不可思議な絵図のことを真形図と呼び、単なる絵としてではなく図を観相することにより、異境との結縁を深めるものだと申されておられた。

水位は霊宝真経を引用し、

「心此処にあらざれば之を視れども視えず、之を聴けども聞こえず、之を保てば則ち仙、之を失えば凡、之を存すれば則ち在り、
之を忽せにすれば則ち亡、之に向かえば則ち賢、之に背けば則ち愚、仙と凡との差は、之を保つことと、之を失うことの差に過ぎず、
諸真形図は仙官の真秘也、実に運命の遇に非ざれば千万年を転生すると雖も、真形結縁の道機に恵まれるる事なし」

と申されておられる。

香川県出身の新聞記者で神仙道研究家の一人清水南岳は、水位翁の異境備忘録に対して次のような見識を抱いておられた。
手記の中で語られる水位の記録は、支那の神仙伝記所載の神仙界の消息を悠に超えて、極めて重要なー恐らくは地上開闢以来の快挙とも言うべく、
神仙界の最高深秘の実消息を伝えたもので、坊間流布の漠然とした夢感やインスピレーションなどの神憑依や霊媒的な類のものなどではなく、
肉身のまま異次元界に出入し見聞して記録された実録であると絶賛されておられる。

神秘に閉ざされたベールの内面を垣間見た異境備忘録と題する不可思議な手記は、東洋に於けるまさにエマヌエル・スヴェーデンボリ以来の快挙と申し上げても過言ではない。
ただし残念な事には、記載されている手記のみでは実は片手落ちで内容があまりに奇想天外で人間の常識と云う物差だけでは計り知れず理解する事すら困難であります。

よって平田学や宮地神仙道に流れる玄学的知識を学びとり認識力を深めて研鑽し、
この世界の奥で現出させている本質的存在の実在に気付くことにより、更には異界を描いた真形図や霊符などを書写したり感相して俯瞰して行く事によって始めて認識の上で、
幽冥界を鳥瞰して体感体現する事が可能となって来るものなのであります。

水位の手記によれば神仙界から持ち帰った品々
・・天地開闢図を初めとして神仙七十二図(玄台真形図・二十八宝真形図・六玄真形図・三宝真形図・二十四真図・霊妙三跡真形図)他数多の真図類があるが、
水位の著書「神僊真形図施行法」によれば、これらの図は皆各々施行法の伝があり、古来より僊官至人の尊秘する符図でありまして、
司命ある者にしか授けられず、求道に邁進し専念する道士に限り授けられるものである。
家に此の符図有れば百毒百邪敢えて人に近づかず、若し病に困り死に垂らんとするもの、
心より道を信じ至るものあれば此の図を以て、これを持ち与えれば必ず死なぬと銘記されている。

またこの道書によれば、真図の内容やその効験についても詳細に論じておられる。水位は異境出入の折りに持ち帰ったオブジェ(石や砂や木の実)etcも大切に保管しておられ、
神仙道教に関する資料は勿論のこと、其の他骨董や刀剣なども蒐集し室内に保管されていたと伝えられている。

周防の国田布施在住の宗教家・友清氏の見解によると、『水位先生は多趣味なお方で、和歌も嗜まれ刀剣や書画骨董にも相当な眼識があられた』と申しておられる。

更に付け加えて『お酒もお好きで明治32年(四十八歳)の秋までは毎日三度の食事に必ずお酒がなくては済まず、
一日量一升に達せざる日はなかったが、同霜月大患を発せられてから後は、一日一合内外を用いられるに過ぎなかった』と申しておられる。

又水位は人間味が豊かで情に厚く何事に対されても誠実を貫かれた人物であったと述べておられる。

神仙の道とは、

『己の心を清浄にし穢れにふれず、邪なる思いを抱かず心を誠にして行き真一を体得する。
俗事に染移せずして、恒に其の道を守り、恒に感を以て真を取り妙を以て誠を進め素理に通じ、符節を天神に合し、真一を具足し、天一に契合して徳を充たし萬境を貫き、
千変万化に奪われず順境に入りて自由、逆境に入りて自在然りと雖も、天一を守りて我を失わず唯だ一に向かいて楽しむ』。

正に有言実行をなされた水位翁であられたが、38歳の頃に大病を病み九死一生を得た。

奇跡的に一命を取り止め、故にそれ以来水位から再來と名を改名する。
その頃の心中を歌に詠じたものが遺されており、

『我が身世に うまれ來にしを 甲斐をなみ あたら月日を いたつらに すきてしきたれ 
三十あまり八のとしの 今日まても 花にあくかれ 照る月に 紅葉の雪に むらきもの こころまとへれ そこ故に
ふみもまなはす 採る筆の すへもならはす 若かりし としの盛を こころなく ふりてし來れは 空蝉の 世にさかりぬ
白玉の人にはおくれ 今更に思ひくゆれと すべをなみ 齢は延ひぬ しれ人と 人は見るらむ こころなき ものといふらん
梓弓 張りてゆるへる ますらをと おもひしわれも いささめの 功はたたす 何事を 思ひたつとも くやしくは かなふことなみ
種々に おもひこるとも かなしみは 送ることなき ものここに うとくなりゆき せんすへの たつきもしらに
石見潟 うらみなけけと いつしかに 芦にふりつむ 霜の下折』

と心境を吐露なされておられる。

一時期恢復なされたが 再び病に臥され 明治32年の冬から37年の春逝去なされるまでは、引き続き病床の人であった。
尤も気分の良い日には、近くの鏡川の堤防を散歩したり、令嬢や令息たちを連れて釣魚や摘菜に行ってみられる事もあったが、
病苦を感ぜられない日は一年間に僅かな時間であったと言われている。

治療の介もなく 水位翁は明治37年3月2日 肉身生活五十三歳を以て逝去なされた。


類別異境備忘録(幽界記合収)について

昭和23年4月宮地宗家(寒川神社宮司宮地威夫)大人の御許可の下、当時高知市天神町に所在した宮地文庫刊行会より原本異境備忘録が刊行されている。

本の題字は宮中掌典職の宮地嚴夫翁の筆跡で後書に述べられた文面によると

「この異境備忘録は神秘的体験の秘められた記録でありまして、素より普通の著述といった意味合いのもとに書かれたものではなく、
文字通り一の備忘録でありますが、その神秘的体験の内容は古来の此の種の記録に照し最も根源的な、
しかもあたらしい分野に触れられた極めて異彩あるものとして又深い厳粛な修道上の内的世界を脱白に遺記されたものとして
体験道たる神仙道の研究上重要なる一資料たるを失はないものと確信致しております。

すなわち此の異境備忘録を御遺稿集刊行の第一巻として撰んだ主たる理由も茲に存するのでありまして、
水位大人によりて勃興せられたる神仙道(暫らくこれを宮地神仙道と仮称しておきましょう)の内容を理会する上に於いて須要欠くべからざる
根本原典たる性質をもつものであるからであります。「以下略」

昭和三年頃より異境備忘録と称するものが或いは其の機関誌上に掲載され、
或いは附録の形式に於いて又単行本として数回に亘って出版されていますが、
是らは正式に宮地家の許諾の下に此の原本によりて出版されたものではなく、恐らく一部傍系的に洩れた写本類から杜撰に転写して版行したものでありましょうが、
試みに此の原本異境備忘録とそれらの写本転写の流布本とを照校せられますなら、原本に対して不忠実極まるものであるかを痛感せられるでありましょう。

今にして之を剥打し是正せずんば、遂に原著とは似ても似つかぬ流布本の横行を容認するが如き結果となりますので、
宮地水位先生の名誉と威信のため紛うなき真正の原本を上木して之を正しく後世に傳へたいとの念願は後嗣としての責任上実に止まれぬものがあったのであります。「以下略」 

当時土佐五台山に設立された神仙道本部では、この原本非売品の異境備忘録を数千部印刷して入門の道士に頒布されている。
備忘録の初版は歳月とともに払底し、
新に再版の必要性を感じていた本部は昭和46年5月1日(工程に不都合が生じアクシデントも重なって遅延し、実際に製本が出来上がったのは10月であります)に再版として、
類別の異境備忘録を印刷にふしている。

類別とは、水位の手記を神界・神仙、幽区・所聞、山人界(天狗界)、仏仙界、魔界、に分類し、
備忘録記載のものとは別資料(幽界記)も照合して内容を鳥瞰図的に俯瞰出来る様に編纂されている。

某宗教団体との軋轢もあったのではとも言われているが真偽のほどは定かではない。
完成直前の昭和46年9月20日在籍の道士宛てに発送された主催者の挨拶状を抜粋する。


幽界記合収

大変延引をいたしましたが。
本日茲に類別異境備忘録(幽界記合収)をお届け申し上げ、
本書の再販に際して多大の御協力を給はりたる各位に対し深甚の謝意を表し奉り、
併せて幾重にも遅刊のお詫びを申し上げます。

『絶版久しかりし本書の再刊に就いては一昨秋(昭和44年)二、三篤信の道士の方との間に其計画が進められ、編輯に着手したのは翌45年の早春でありました。

異境備忘録に就いては改めて原本より一字一字を入念に拝写して誤謬なからんことに努め、
また之を機会に先師の秘せられた手記「幽界記」の大部分を収載して合巻とし、
備忘録に洩れた神仙界及び諸幽界の消息や神法道術に関する師仙等の秘説を拳げ彼比参照に資する念願のもとに編輯をすすめ、
既に昨夏8月初旬には大方の組版を了へていたのであります。

尤も幽界記未発の諸消息の公刊物発表が果たして先師をはじめ関係神祇諸仙等の幽賛を得るものであるかどうかに就ては当初より全く自信はありませんでした。
然し純粋に斯道を学ぶ求道の士に正しき信仰の原点と修道の根源を指向し、
千古と万世を貫く不滅の道標を照明することは、今日多少幽意に難点ありとするも胆を放ちて公表すべきとの決意のもとに幽界記原本の拝写に着手したのでありますが、
果たせる哉一日異様のいたつきを突発するに至ったのであります。

乃ち上腕は炬燵に焼かるゝ如き熾烈の激痛に襲はれ、其間断なき苦痛のために睡眠に入ることも得ず、
痛みに耐ゆる限界を超えて失神か眠りか夢幻の如き意識の混濁と忘我の境に陥ること一、二時といふ毎日が数ヶ月に亘りました。

或時期は筆を執れば忽ち悶絶に近い激痛が手指に移行し来たり、静かに息を潜めて筆を措くといふ状態が続きましたが、
此の種類のミソギには年来諦観し切った私の人生でありますから敢えて異とせず、
幽界記の写稿は斯うした試練の裡に進行し逐次印刷所に廻付して殆んどの組版を了へたのでありますが、
時恰も昨夏八月二十一日高知は史上未曾有といふ風速五十五米台風の直撃を受け、剰へ市の半域は軒下に及ぶ異常の高潮に見舞はれ、
是らの組版は一朝にして烏有に帰し去ったのであります。

茲に私は幽意の恐るべき御指摘を否応なく直視せざるを得なかったのであります。

本書の「はしがき」に於いて、幽界記の三分ノニを割愛せる旨を述べ
「痛烈な訓戒として悟らされた」と抽象的に表現してあるのは右の諸事実を指すのでありますが、
茲に再び改めて稿を起こし、概ね既発の部分をてき若として備忘録の類別の項に編収し、
十月に入って本文の初校を見るに至りましたので、
茲に初めて類別異境備忘録の再刊を全道士間に発表したのであります。

清の銭謙益の大著明史百巻の稿本は祝融の災により遂に世に出づることなく「幻の書」として消え去りました。
後学の史家は之を悼み「豈に天の斯の文を喪(ほろぼ)すか、或は論ずる所の人、
造物の為に忌まれて、これを惜めるか、抑もこれを伝ふるを欲せざるか」と評して天意の介入を嗟嘆しましたが、
史書にして既に然り、宇内深秘の霊典の然るべき所以は豈史書の比に非ざることの一証であります。

一、本書は改版後、遅くとも四月中には完了の予定で、
その故に「はしがき」にも「奥付」にも発行日付を五月一日として印刷させたのでありますが、
さて其後の附録部分の工程残留工員は工員の大量引き抜きに遭ひ、
残留工員は文選・機械工各一名といふ麻痺状態に陥り、復旧を得る迄に二ヶ月餘を空費しました。
次いで活字鋳造機の故障で、大阪迄発注の部品が合ふの
合はぬのと亦た一ヶ月近くのストップ、まことに辺陲高知は文化果つるところで、
一列せば表紙の厚手黄紙の取寄せに二十日、また表題の「異境備忘録」の一号正楷活字の取寄せに二十日、
また表題の「異境備忘録」の一号正楷活字の取寄せに半月といふ始末、
更に切角校了の索引之部二十一頁を誤って改版し、またまた文選からやり直すといふ有様で、
加之、大規模の工場の如く一度に六十四頁分を刷上げるのとは異なり八頁づゝこまめに刷ってゆく能率ぶりでありますから、
よほどの忍耐力を必要とするのであります。

然乍ら二十餘年間に亘りご苦労をかけた印刷所を変更するといふ様なことはわたしの為し得ないところで、
茲では義務的に遅刊の経過を説明する必要上止むを得ず事実を述べるに過ぎないのであります。

一、しかし此の小休止の連続も結果的にはまた別の
収穫を生みました。当初の本文だけ(109頁)の収載予定から次々と附録を追加し、
索引も改版前の6頁から私の個人用索引の若干を加へて21頁に増補し、
全編を通じて凡そ60頁近くを増頁する結果となり、
本文理会の上に資するを得たことは発行遅延を嵌めて餘りあるものであったと考えます。

一、最後に一言申添へたく存じますのは、本書の研鑽と概念の整理に出来るだけ「索引」を活用して頂きたいことであります。
本文並に附録・夢記迄の123頁に対し
21頁にも及ぶ索引を付した用意は深長で、本書を読みて索引の必要性を感じないといふ者あらば、
恐らくは神仙の類か、然らずんば席を同うして倶に神仙を語るに足らざる無縁の徒でありませう。

今一つは巻末の水位先生御著述目録中の道書に関しての御照会には一切御返信申し上げ難いことで、
是らの霊著は故あって門外不出・門外不語の禁掟を墨守いたして居ります。

羽雪大霊寿真仙(平田篤胤先生)は

「道家の書は、師の口訣を受けずては、絶えて悟るべからぬ書なれば、
読みて疑なきこと能はず。読む人をして、其の解すべきを解せしめ、
疑ふべきを疑はしめて其の訣を授けむとなり。師説の草稿の如き、其師の思ふ旨ありて、
片成るを示す事あるを盗み取りて他に伝へ、師に甚だしく恥見する事もあり。
余が門にも往々あり。然るに盗する者必ず道の蘊奥にたどり入るべき人物に非ず。
其は文道の神仙のにくみ給へばこそ」と申されました。

非情のやうでありますが達人の至言であります。未だ斎主と一面識だになき人が、
一片の書状を以て先師血肉の霊著の貸出を当然の如くに要請し来る例さえ往々にあり、
入室の大義を弁へぬ論外の沙汰といふべきであります。

一、  本書を入手せられましたら御手数ながら
    同封のハガキの裏面に貴名を記入の上
    御投函下さい。

      昭和 四十六年 九 月 二十日

               神 仙 道 本部


お蔵入りとなった幽界記

神仙道本部に於いて結局公開される事のなかった『幽界記上・下』ニ巻でありますが、
内容については神仙道会報誌昭和28年4月発行の傳道号中に若干触れておられるので或る程度どのような内容のものであったのか推察することが出来る。

主催者である清水南岳が水位の手記・異境備忘録を補う上で、その奥書とも言える幽界記の重要性を認識し上木を試みようとしたが結局公開には至らなかった。

当時会を運営上数々の問題が山積した事も原因の一つと思われる。南岳は側近の弟子に、水位の著作には幽界記という題名の本はなく、便宜上私が銘々したもので、
この幽界記の内容の一部は、昭和25年3月2日〜昭和27年6月31日迄の期間に備忘録補遺の記事を補足する為に、必要と思しき箇所を断片的に引用し投稿させて頂いた。

異境備忘録によって窺ひ得られた神界の実相が、この幽界記によって更に其の深さと幅さと正確さを与へられるもので、
幽界記を紐解くことにより始めて尊ムベク恐ルベキ尊神仙タル真貌ヲ知ル事ガ出来ルし幽界の実相を窺ひ得るので、常に坐側に備へ、異境備忘録と併せ読照研すべき秘録であると語っている。

幽界記の公開は昭和20年代に一度計画が頓挫し、昭和46年再版類別・異境備忘録出版の時節に再度公開に踏み切ろうと志したが、不慮の事態の発生により遭えなく断念せざるを得なくなった。
これらの件に触れて述べておられる当時の関連資料や挨拶文などを読むと、幽界記の掲載に関しては、不可抗力な台風の被害に遭い、始に計画して企画したものは頓挫して反古となり、
やもなく新たに原稿を再度書き直して改稿し、それ故に当初予定していたものとは乖離が生じてしまったようである。

災害により貴重文献の一部資料や原稿なども紛失し、当初に予定して書き上げて纏めていた幽界記録の補足も改訂して1/3程度に割愛し、再び稿を改め直して補い、
その結果五月予定の印刷が大幅に遅延してしまい、漸く十月に入って本文の初校刷りが完成した。

茲に初めて類別異境備忘録の再刊の上木を全道士間に発表する事が出来たと挨拶文には書かれている。
災い転じて福と為すと言う喩えがあるように、この小休止の期間に索引を増補し、水位先生小傳、神仙服飾図抄、夢記などを附録として増頁する事が出来た。

編集した主催者の清水宗徳氏は最後に一言次なる言葉を申し添えておられる。

『本書の研鑽と概念の整理に出来るだけ「索引」を活用して頂きたいことであります。
本文並びに附録夢記迄の123頁に対し21頁にも及ぶ索引を付した用意は深長で、
本書を読みて索引の必要を感じないといふ者あらば、恐らくは神仙の類か、然らずんば席を同うして倶に神仙を語るに足らざる無縁の徒でありましょう。
今一つは巻末の水位先生御著述目録中の道書に関しての御照会には一切御返信申し上げ難いことで、是らの霊著は故あって門外不出・門内不語の禁掟を墨守致して居ります』。

平田篤胤先生は

「道家の書は、師の口訣を受けずては、絶えて悟るべからぬ書なれば、読みて疑なきこと能はず、読む人をして、其の解すべきを解せしめ、疑ふべきを疑はしめて其の訣を授けむとなり。
師説の草稿の如き、其師の思うふ旨ありて、片成なるを示す事あるを盗み取りて他に伝へ、師に甚だしく恥見する事あり。
余が門にも往々あり。然る盗する者、必ず道の蘊奥にたどり入るべき人物に非ず。其は文道の神仙のにくみ給へばこそ」

と申されました。

非情のようでありますが達人の至言であります。神仙の大道を敬慕し修道を求めて、志を立つるものは牛毛の如くに多いが、至誠一貫真を修め徳を積み、
神祇師仙の啓導を得て、得道して昇仙し得る道士に至っては、麟毛の如く少ない。


附録として掲載された著述目録

土佐の五台山神仙道本部では、昭和23年及び昭和46年の二回のみ非売品として宮地水位の手記である異境備忘録・類別異境備忘録再版本を本部より自費出版している。
初版は2,000部刷られ再版は道士義捐金や会報誌の頒布金により出版されている。

何れも巻末には宮地水位先生著述目録が附録として掲載され、その著述リスト名は判明しているだけでも初版に295書目再版には約20点ほど補足して315書目の掲載に及ぶ。
但し水位の著作は手控えや覚書程度の文字通り未定稿本まで入れると五百冊に及ぶであろうと云われている。
水位は、非常な学者で学問の前には何も眼中に無かった。

神に仕える外は不断に筆を呵して著述に没頭、一度筆を執るや驚くべき平素の薀蓄を披瀝し、
縦横無碍に著述論評して止む所知らず、机上にあっても寝室に在っても、苟くも眼物を視得る限りは著述に従事したので、其の著は正に数百種に達し数千巻の多きに達したと言う。

後に異境備忘録を編集された主催者清水南岳は、晩年に当時の頃の事を回想なされ、水位先生の著された膨大な書物の題目を知るだけでも、
後学の道士が宮地神仙道の道筋を歩むのに役に立つのではと思ったのが動機でありますが、良くあれだけの著作本の題名を見つけ出すことが出来たと思っておりますと側近の道士に吐露されておられる。

水位は若き頃より好学強記で、百科の学に精通せられておられた。天来の学識と底知れぬ知識を縦横に駆使して数多の分野の著作類を書き遺したが実利には甚だ疎く、
市井の仙を貫いておられた学者肌の水位には、生前には何れの著作も刊行なされる意志はなく、ただ側筆の岑正雄なるものに草稿を浄書本として書写し装丁するように命じておられた。

手記によると、水位は生前に自分の手で祝融したものも多く、弟子などに貸し与えた写本類も夥しく貸失ない、口伝盗みの為に門人から持ち出されたものもあり、
又不注意によって紛失した写本類や致道館の蔵書本などもあったようだ。

父君の常磐が藩校の蔵書本を入札して落札した数万冊の書物も、水位帰天後は、未亡人の手で処分されてしまわれた。
京阪をはじめ諸国から集まった有力書肆の手で分散したと云われている。
それ以外は姻戚筋の宮中掌典・宮地厳夫氏並びに神道学者・宮地直一博士に移譲されている。

現在世間に流布されている水位の遺稿類の大半はこの両氏の蔵書から洩れ伝わった写本からの転写であります。

ちなみにどのような原稿であつたのか、下記にその題目を掲載することにする。

『異境備忘録』『夢記』『禁厭秘辞』『禁厭集』『鴻蒙字典』『蛇の室屋』『五子録』『海宮考』『神仙霊含記』『神仙順次伝』『神仙伝道開端編』『神仙導引気訣』『神仙真形図施行法』『神仙霊感使魂法訣』『神仙服飾圖抄』『巫医大意』『巫医梯』『窮理笑談手記』『好道意言』『玄学異名蒙引』『玄道或問』『仙人食物篇』『鎮魂式一家法』『霊胎凝結口伝』『仙人下尸解法訣』『玉條摘要』『玉條一籤』『天狗叢談』『奇火叢談』『幽霊叢談』『仙境叢語』『和漢再生叢談』『大国主大神御伝記』『青真小童君伝集録』『玄真栞』etc。

これ等の論考は水位が著された夥しい著作群の1/10にも満たないものではありますが、例え一片の片鱗とはいえども竜種には違いなく、
その一部なりとも今日目を通す事が出来る事は実にこの上なく奇跡的なことであります。

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