死後の行先を決定するアヌービス

 

例えば、エジプトを見てみよう。
その壁画に刻まれているのは、法の審判・アヌビスである。
地獄の法の審判で、死後の行先を決定する存在だ。

アヌービスはジャッカルという動物の顔を持っている。
これはアヌービスの特徴を象徴的に表したもので、古代遺跡は往々にしてこういう表現方法を取る。

アヌービスがなぜジャッカルかというと、ジャッカルという動物は骨にかぶりついて、骨の髄まで到達する牙を持っている。
すなわち、法の審判のアヌービスの前に出たら、私達は何も隠し立ては出来ないという意味である。
心の底まで、全てお見通しという訳だ。

 

 

151ページの写真を見て欲しい。左側に立っているのがアヌービス、彼は今、私たちのハートと、真実の羽を、天秤にかけているところだ。
そして、天秤の右下には鰐がいるが、鰐は、地獄行きが決まった人を呑みこむために待機している。

 

古代エジプトの人々は、死後の世界の存在を信じていた。
その為、弔いの儀式は非常に重要な意味を持っていた。
それは肉体から離れた魂と霊を助けるのに、その儀式が役立つものだったからだ。

 

肉体の死後、霊と魂を助けてくれるのは、叡智の光と神聖な正義である。
現在行われているような、生き残った人々を慰めるのが目的の葬式ではない。
世の中が物質主義に傾くに従って、古来より伝わった神聖なものが形骸化していく。

 

弔いの儀式はまた、アステカ文明の時代にも行われていた。
そこでは、大地の母がすべての霊を呑み込むために、死人を呑みこむ、と言われていた。
地獄はミットランと呼ばれ、その機能は同様に、心的な浄化を目的としたものだ。

 

ミットランの入り口には審判がいて、死ぬとその前に立たされた。
そこで、高次へ上昇する人と、反対に地獄へと下降していく人とに分けられた。
これが先ほど出てきた、エジプトのアヌービスの仕事を描いた壁画と、同じ意味合いを持つものだ。

 

アステカ文明では、この高次の力(神)をケッツアルコアトルと呼び、羽根のある蛇で象徴している。
また、低次へと引きずり降ろすのはテスカトリポカという、黒い顔をし、煙に巻かれた鏡を持っている人物である。

 

この二つの力、高次へと引き上げようとする力(私たちを助けようとする力)と、低次へと引きずり降ろそうとする力は、実は死後の世界のみに働いているものではない。
生きている間も、私たちは、この二つの力のちょうど中間に立たされている。
どちらへ行くかは、私たち一人ひとりの意志の力による。

 

カトリックの僧院の壁画にも、地獄、及び死後の世界について描かれている。
十三世紀に建てられた、イタリアのサンタ・マリア教会には、上の部分に高次が、下の部分に低次が描かれたフラスコ画が残っている。

 

この壁画では、肉体の死が訪れると、霊魂は死の川を渡っている。
その川には、アーチ型の橋がかかっているのだが、無事に渡りきれるかどうかは、その人の内面生活のいかんによる。
エゴをたくさん抱え込んでいる場合は、たやすく川に落ちてしまうのだ。そして、地獄へと連れ去られてしまう。

中には、橋を渡りきらないうちに、高次の存在が迎えに来ている人もいるし、反対に、無事に渡りきっても、向こう岸でもう一度、正義の天秤にかけられている人もいる。

次頁の絵はキリスト教の地獄を描いたもので、十五世紀、フランスのものである。

 

 

この絵で大変興味深いのは、下に引きずり降ろされているのが、司祭であるということだ。
営利主義に陥りながら、ネコかぶりして善人面をしていた司祭たちの罪は、一般の人より重い。
宗教を教えるべき地位にあったということで、より大きな責任が問われるからである。

 

チベットに遺されているものは、もっと具体的に色々なことを語っている。
それらは、エゴがあるうちは、人間はエゴの奴隷にすぎない、ということを教える。
自分は自分で生きていると考えていても、実際はそうではない。
エゴという、心理的付着物に使役されているというのだ。

そしてさらに興味深いのは、このエゴをやっつけることができるエネルギーについて語っているものが、数多く遺されていることだ。

エゴは、欲望のエネルギーである。大変パワフルなエネルギーだ。
しかし、それに勝るエネルギーを、私たちは持っているというのだ。

それは何か。性エネルギーである。

この何より強いエネルギーを、上昇・昇華させることによって、エゴをやっつけることができる。
これがタントラの秘密である。
神々の交合図が現し、伝えているのは、性エネルギーの昇華についてなのだ。

 

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