(太宰府天満宮)

靈寳渾沌五嶽眞形圖について

 

明治10年前後、水位翁20代半ば頃には、すでにかなりの門弟が水位の下に参集しており、父常磐翁の認可を戴き
極めて一部の俊秀なる弟子に対しては五嶽図なども秘かに伝授致していたようであります。
必然的に姻戚筋の宮地嚴夫翁もその折に地仙系の眞図や霊符類を戴いたようであります。

若き頃より雲笈七籤や道蔵に造詣の深い方全先生でしたが、明治17年平田門下の弟子の一人から、
平田大人の門外不出の論考の一つとされる「五嶽眞形圖説」を借り受け秘かに模写し、末尾にその見解を
述べておられる。

 

それから11年後の明治28年1月15日朋友で同友の当時大有道人と号しておられた宮地堅磐翁44歳にあたる年、
天啓により宇内の神宝とも目される眞形圖を幽より現界に持ち来たらしておられる。
 五嶽眞形圖とは『抱朴子』に古人僊官至人 此の道を尊秘し僊名有る者に非ざれば授く可らざるなりとあるが如く、
「五嶽眞形圖」の授受は本来的に申せば靈眞之位に至れる者が其の璽信として受持された程で、斯く尊貴にして
神異なる眞圖であればあるだけに、之を受持する心構へといふものが大切とされることは当然のことであります。

 

「此の道、信と不信とに有り」とはいみじき達言でありまして、軽信の徒の前に神秘を語ることの容易ならざる
戒めて居られるのであります。葛仙翁の言にも、神仙の事誠に小醜の縁尋すべき所に非ずと断ぜられて居ります。

仙縁あるに似たりと目せられる人士も、其の所信の変化如何によりては仙を得べき道書を変じて禍を致すの書たらしめ、
仙胎を養ふの尊圖をして身を傷るの刀鋸たらしめるのでありますから、頭上神明の幽鑑を懼れ慎み、
常に眼を天際に著けねばならぬのであります。

 

特に「五嶽眞形圖」の尊きに至りては、もと之三天太上大道君親写して制し給ひし混沌元始の眞形で、
元気始めて発動して五気の精を固め、五神其の徳を化行して開闢せし五大神界に空気を結ぶところの神物でありますから、
前章にも引けるが如く、家に此の眞圖あれば五嶽の神界より一嶽各々五神を遣はし、此の二十五神其の地の
山川の靈官と倶に、此の眞圖を祭る家を守護し、また此圖を奉持して山林河海を経行せば、其の行く処の霊境の主神は
皆出でゝ此の圖を拝迎すと伝へられ、鬼神すらなほ斯く卑降の礼を執るの神物でありますから、況や人間の士として
軽信あるべからざることは言を俟たざるところであります。

 

「五嶽眞形圖施用法」によると昔、中黄太一 を遺して此の圖を以って下して名山隠逸の仙縁有る者に授く。
結約五八(40)年にして伝ふるなり。
自ら運命之遇にあらずんば、其の篇目をすら見る事なしとある如く、其の人の仙縁といふものが熟して自然にさうした運命に
遭遇しなければ「眞形圖」の説をさへ聞くことも出来ないので、況や伝授の機縁に触れるという様なことはよくよくの道縁の
致すところであります。

 

水位翁の物された「神僊真形図施行法」霊宝七十二真図解説の五嶽真図の説明によると、
五嶽真形図は東岳、西岳、南岳、北岳、中岳四輔山の図也。首題ありて霊宝五嶽真形図と称し訳文あり、
次に奇文六行の文章有り。其傍に曰く、三天太上大道君命有り、天地山川丘陵の神、我が子を護りて 害患を慎み、
久安を念ひて長全ならしめよと。

訳文有り。此の傍に奇文あり、所謂八会の書也。此の奇文三十二字。
次に五嶽四輔山の図有り。之れ赤黒混合、盤曲委蛇たる山水の図也
。其の右傍に奇文有り、同体の大字なり。並びに東春、南夏、中央戌巳土 西秋、北冬の訳文あり。
其の左傍に、東岳真形、南岳真形、中岳真形、西岳真形、北岳真形といふ楷書有り。
次に四輔山の図、並びに黄帝命霍山南儲、潜山南儲君、青城丈人、盧山使者といふ訳文あり。

巻末に老子文あり、其文に曰く、老子曰く家に東岳図有らば刑獄を辟け人をして延年長生せしむ。
家に南岳図有らば火光を辟け、家に西岳図有らば兵を辟くること三千里 、家に北岳図有らば鮫龍風波を辟け水に入りて溺れず、
家に中岳図有らば家人をして患無からしめ女は貴人と為り男は宜しく官たるべし、天使之を有せば国安らかに民豊けく、
道士之を有せば身神仙に登り、凡人これを有せば大だ命延長すと。

 

抱朴子に曰く、余 鄭君の言を聞くに、道書の重きは三皇内文 五岳真形図に過ぐるは莫し。
古仙官至人此の道を尊秘し仙名有る者に非ざれば授く可らざりし也。
之を受けて四十年にして一たび傳ふるに血を啜りて盟ひ、質を委きて約を為す。
名山と五岳には皆此の書あり、但だ之を 石室幽隠の地に蔵むるも應に道を得べき者山に入りて精誠に之を思へば
即ち山神自ずから山を開きて人をして之を見しむ。帛仲理 といふ者の如きは山中に於いて之を得、
自ずから壇を立てゝ絹を委き常に一本を畫きて去れり。
此の書を有する者は常に清潔の處に置きて、為す所ある毎に、必ず先ず之に申すこと君父に奉ずるが如くす。

其の経に 曰く、家に三皇内文有れば、邪悪の鬼、温疫の気、横殃、飛禍を辟く。
若し困病して死に垂んとするもの有らんに、其の道を信ずる 心の至れる者此書を以って与えて之を持たしむれば
必ず死せざるなり。

その乳婦艱難して絶気せる者、之を持てば児生まる。道士長生を求めんと欲せば此書を持ちて山に入るべし。
虎狼、山精、五毒、百邪を辟け、皆敢へて人に近づかず、以って江海を渉り、蚊龍を却け波風を止む可く、
其の法を得ば以って変化すべし。

 

(中略)

堅磐曰く、右五岳の図は、毎に春夏秋冬に一たび出して之を窺ひ図の気を服す可し。
或いは山に登るに、山下に於いて之を頭上に頂く可し。
或いは 江海を渡るに船上に於いて右手に図を持ち 六甲ノ秘咒を唱へ九度之を振り終わりて胸前に掛く可し。
これ五岳施行法なり。(神仙真形図施行法より引用す)

五岳真形図の起源に就いては、内傳に王母の曰く、昔、上皇の清虚元年に、三天の太上道君下りて六合を観じ、
河海の長短の瞻 丘山の高卑を察し天柱を立てゝ地理を安じ、五岳を植てゝ鎮輔に擬し、乃ち山岳の規矩に因りて
河岳の盤曲を睹れば、陵回り阜転じ、山高く隴長く、周旋委蛇形ち書字に似たり。

是の故に象に因りて形を畫き、玄臺に秘して而して出して霊真の真と為す。これを執りて山川を径行するに、
百神群霊尊奉して親しく迎ふとあるが如く、太上道君が天極直下を中心として五天柱を立て給ひし時、
親しく虚空より其の真形を写されしもので、元来求道の士にして霊異の徳具はり神真の位に至れる者に賜ひて
其の璽信とされたほどのものである。

 

青牛先生の言に、人間に五岳真形図あれば、一岳各々五神を遣わして図書を衛護して身の凶運を防ぐ。
傷害せんと欲する者は 反って其の殃を受けむ。
人此の文を帯ぶるありて執持して以って山林を履むに、その霊主みな境を出て拝迎し図信を尊貴す。
鬼神もなほ卑降の礼を執る。何ぞ況や凡人にして慢堕すべけんやとあり、既に之を帯ぶる者にして
斯くの如き霊異の徳を具ふものであり、それだけに所謂五岳真形図なる擬図も極めて多く、最も流布されているものに
五岳集図と題する板本ものを始め月令廣義遵生八牋 、図書篇、五岳真形図経、衡岳志、傳古図録中の鏡背図など数十種
に上り、それに亦いつの時代も此の道にはつきものの神人隠士と号する売法の輩が
新考案を加へるので何とも申し様もない有様になっているのである。

 

先師の霊胎凝結口伝に「彼の神仙の秘書たる二十四真形図の一種たる五岳真形図四輔山ノ図に至りては、
赤黒の二色混沌たる図にしあれば、真形の名目は如何なる故に負せたるや、また黒赤は何たる事やと年頃思ひ煩ひたるを
不図心付きて感念の妙術に諸図の感想法を以って是を窺へば、赤きは烈火となりて炎上し、黒きは泥の如くして漂ひ、
炎上の烈火上昇し畢りて一円の黒色と成り、漸々に水色と黒色に成れり。
水色は多く黒色は少なし。
此に於いて實の真形図たるを信ず。
然るに是より漸々に変化して終に日月星の元因までも窺ひ得たれどあまりにくだくだしければ漏しつの一節を引いて
謹みて本項を終りたいと思う。
・・・・修真秘訣より一部抜粋す。 

東方道士曰く、水位派神仙道の靈宝たる「五岳真形圖真巻」ニ軸のうち、一軸は
神集岳方義山大永宮東南の小理宮東寄りの玄台に
秘められた宇内の宝軸 三天太上大道君親筆の「五岳真形圖原巻」を許されて伝写されたもので、
之は水位先生が靈真(寿真)の仙階を得られ次いで玄台開監令に進位せられた明治十年三月五日以後のことであるが、
この神集岳秘蔵「五岳真形圖」の副巻としては、支那の神仙界に一軸が蔵されているだけで、
人間世界に齎されたものとしては、我が水位派神仙道に伝わるところの一巻のみであります。

今一軸の神授「五岳真形圖」は、西王母より漢武帝に出て、次いで董仲舒を経て、鄭思遠、葛洪(抱朴子)等 
代々の靈仙の伝へたる地上人仙 
伝統の一軸実に天満宮即ち菅公の御取為しによって授かったもので、斯うした一大事は少々の靈縁で
恩恵せられるものではないのである。

五岳真形圖序文にも霊真の位階に至った信として玄台より五岳を出して之を授くという事が記されてある。
神界では仙階級位の昇任ある毎に位階 相応の真形圖や霊符を授けられる慣わしのものの如くである。

私かに案ずるに其の授かった真形圖相当の境界への出入を許され 、
また其の符圖の霊験相応の霊的実力を与えられるものと考へられる。

以下略 

 

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